+++ 春の鼓動 +++
…雨、か。
さっきまで柔らかな春の日差しが新緑を照らしていたというのに。
三洲は音もなく降る雨を忌々しげに見上げた。
昨年からの流れで放課後は生徒会室で過ごすことが今や当たり前になっている三洲は、この日も新年度特有の雑事に追われ、暗くなるまで作業をしていた。
生徒会室に置き傘があったはずだが、まだ居残って仕事をしている生徒会長以下、役員の先輩達の人数を思えばその傘が三洲まで回らないことは確実だ。
もっとも…三洲が傘がないと言えば気持ちよく貸してくれるような先輩ばかりなのだが。それをわかっているからこそ生徒会室に戻るのが躊躇われた。
大した雨じゃない。でも薄いベールのように纏わり付くような雨は決して気持ちの良いものではない。いっそドシャ降りのほうが濡れても諦めが付くというものだ。
さてどうしたものか…。第一校舎の昇降口の庇の下でしばし逡巡していると、暗がりの中からバシャバシャと水溜りを跳ねながらこちらに向かってくる人影に気付いた。
「アラタさん!」
昇降口から漏れる明かりにぼわっと浮かび上がったその人物を認識するより先に声を掛けられる。三洲はそっと溜息をついた。
「…またお前か…」
真行寺兼満。この春祠堂に入学したての元気な一年生。
なりゆきであっけなく告白されてしまい、なりゆきでずうずうしくも三洲を名前で呼ぶ唯一の人物。そして入学以来毎日三洲の前に現れては「好きです!」を繰り返すのだ。
「雨、けっこう降ってるから、あの、入って行きませんか?」
嬉々として言う真行寺の手には濃紺の傘が握られている。
「へえ、随分準備がいいんだな」
今日は雨が降るなんて天気予報でも言っていなかったと思うが。
「たまたまこの間部室に忘れたのがあったんです」
「部室? 部活に入ったんだ?」
「剣道部っす」
「ふうん」
剣道部ね。たいして身長に差があるわけではないのに大きく見えるのは姿勢が良いせいだと気付いていたが、なるほどそういうことか。
三洲は黒い空から細く降り続く雨と差し出された傘を交互に見遣り、やがて観念したようにその傘の半分に納まった。
「へへっ」
「なんだよ」
チラリと横を見ると真行寺がしまりのない顔で見返す。
「いえ、じゃあ帰りましょう、アラタさん」
初めてふたりで肩を並べて帰る、寮までの道のり。
霞がかった視界の向こうにぼんやりと寮の明かりが浮かぶ。
静かな雨音と雨を含んだ土の香りが周囲を包む。
ぎこちなく、少しだけ空いたふたりの隙間を風が通り抜けた。
「随分とタイミングが良かったじゃないか。まさか待ってた訳じゃないんだろ?」
「偶然っすよ。部活終わって雨が降ってたから、もしかしたらアラタさんがまだ生徒会室にいるんじゃないかなーと思って来てみたッス」
「ふぅん?」
疑わしげな視線を送った三洲に、
「もうこれは運命っすね、アラタさん!」
真行寺はニッコリと微笑みかけた。
四月も半ばを過ぎたとはいえ、まだ肌寒い祠堂の夜。今夜みたいに雨が降れば尚更のことで、三洲は無意識に空いた手で肩をさすった。
「寒いっすか、アラタさん?」
その仕草を目に留めた真行寺がすかさず聞いてくる。
「寒いと言ったら肩でも抱いてくれるのか?」
三洲は目を前に向けたままサラリと言った。
「えっ! いや、あの、あのっ…」
途端にわたわたと左手に持った傘を右手に持ち替える真行寺。ふたりの距離がわずかに縮まる。でもその手を本当に肩にかけていいものかと迷う暇もなく三洲はくすっと小さく笑った。
「冗談だよ」
「は、はぁ。そうっすよね」
落胆したようにダラリと下ろされた左手は、行き場をなくしてしばらくさまよったあと、もう一度傘を持った。
「アラタさんはいつも生徒会の仕事を手伝ってるんですか?」
「そうだな」
「あ、じゃあ部活とかはしてないんすよね」
「そうだよ」
「えーっと、中学の時とかもやってなかったっすか?」
「さあ」
「さあって…。じゃあ趣味とかないんですか?」
まるで沈黙を恐れるように真行寺が矢継ぎ早に問いかける。人影のないグラウンドの隅をふたりきりで歩きながら、真行寺が緊張しているのが手に取るようにわかる。三洲は小さく溜息をついた。
「…あのなぁ、見合いをしてる訳じゃないんだからいちいちそういう質問をするなよ」
「あ、は、はい、そっすね。じゃあ、えっと…」
「だいたい、男同士で一緒の傘に入ってるだけでなんだってそんなに緊張する必要があるんだ?」
意地悪く横目で視線を送りながら三洲が聞く。
「だ、だって。相手がアラタさんだし」
「…だし?」
「俺、アラタさんのこと大好きですから」
大好き…出逢ってからまだ間もないというのに、この言葉をもう何回聞かされただろう。
「まだよく知りもしないのによくそんなことが言えるな」
呆れたように三洲が言う。
「それはそうっすけど…。でもそれはこれからゆっくり知ればいいことだし」
「よく知ってみたら実はすごく嫌なヤツかもしれないぞ」
「そんなことないっす」
「なんで言い切れるんだよ」
「だってアラタさんだから」
「…はぁ?」
アラタさんだから…。なんでそんなふうに断言できるんだ?
「大丈夫ッス。俺の目に狂いはないっすよ」
「どうだか…」
それきり、黙ったまま寮へと続く暗い道を歩いた。
水溜りを避ける度に触れ合う肩が熱いのは気のせい。
名前を呼ばれる度に鼓動が早くなるのは気のせい。
いつもより歩調が遅いのも、きっと気のせいだけど。
出逢って以来、何度も何度も好きだと告げられて、その度にざわめく心。
不快な訳ではない。でも心地よいのとも違う、三洲の心を惑わす言葉。
「真行寺」
「はい?」
寮の壁伝い、あと少しで玄関というところで三洲が足を止め、ふいに傘を奪い取った。そして傘をグラウンド側に傾ける。壁と傘の間にできたささやかな密室。
三洲はおもむろに真行寺の頭を引き寄せた。
「え…え…え…?」
訳がわからず目を丸くした真行寺に、三洲はふわりと笑って目を細めると、そっと口唇を重ねた。
「あ………」
真っ赤になりながら、でもなにが起こったのかわからないといった表情。
「お陰で濡れずに済んだからな。お礼だよ」
そう言って三洲はパッと傘から抜け出すと、足早に去って行った。
「うっそ…」
三洲が寮の玄関へと消えて行くのを、真行寺はただ呆然と立ち尽くして見つめていた。
―――何をやっているんだか。
自分のとった唐突な行動。何をするにも計算ずくで、頭より先に身体が動くことなどないはずなのに。
あの雪景色の中、偶然に見つめ合った瞬間から、なにかが変わった。
かつて経験したことのないなにかが、心の奥をくすぐる。
いつもより心拍数の上がった鼓動と、得体の知れない胸を締め付ける想いを収める為に、ひとつ大きく息をついて目を閉じる。途端に瞳の奥に映った残像を、頭を振って打ち消した。
「濡れなくて良かったよな」
そう、ただそれだけのこと。
声に出して言うことで自分を納得させる。何故だか火照った頬に手を当てて、三洲はいつもの足取りを確認しながら部屋へと戻って行った。
―――もしもこれが運命なら。いつか神に感謝する日が来るのだろうか………
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