+++ 秘密の約束 +++
「ねえ、アラタさん。今度の土曜ってヒマっすか?」
受験勉強をする俺の横で、ベッドに寝転んでいた真行寺がマンガを捲る手を止めて聞いた。
「受験生に暇なんてある訳ないだろ」
理由も聞かず一言であしらう。
「そっすよねー。やっぱダメっすよねー」
「………」
「あーぁ。アラタさんが来てくれたらなー」
「………」
「絶対勝てる自信あるんだけどなー」
「―――」
うるさい。問題に集中出来ないだろ。
「でもなーやっぱ来てくれないんだろうなー」
いつになくしつこいな。思わせぶりな言い方に、もしかしたら何か大事な用件なのかと少し気になった。
「…何があるんだよ」
振り返って答えた俺を見て真行寺の瞳が輝く。
「試合っすよ。部内対抗戦」
「何だ、そんなことか。他校との試合じゃないんだろ? だったらわざわざ俺が行く必要もないじゃないか」
「他校との試合だったら来てくれるっすか?」
「そうは言ってない」
「あ、やっぱり?」
真行寺が苦笑して溜息を付く。
今までも何度か誘われて見に行ったことはあるけど、部内の試合に誘われたのは初めてのことだった。
「何か特別な試合なのか?」
「あれ? 興味ないんじゃないの?」
「お前があんまりしつこいから聞いてやったんだよ」
「へへ。今度県大会があるっすよ。その団体戦の大将を決める為の部内対抗なんです」
「へえ。で? お前は俺が見に行かないと勝つ自信もないと?」
「そういう訳じゃないっすけど…」
「なら何なんだよ」
「いや、駒澤と俺、殆ど同格だから。やっぱ応援があるとないとじゃその差だけ分が悪いかなーなんて…」
ああ、そういうことか。駒澤には応援が来る訳だ。マメだな、野沢。
真行寺の試合を見るのは嫌いじゃない。嫌いじゃない、どころかむしろ好きだと思う。試合の最中は一身に真行寺を見つめていても、誰も訝しく思わないから。正々堂々とお前を見ていることが出来るから…。
「…気が向いたら行ってやるよ」
「ホントに?」
「気が向いたら、だぞ?」
そう言いつつも俺はどんな理由があれば不自然じゃなく試合を見ることが出来るかと思いを巡らせていた。
他校を招いての練習試合というならまだしも、たかだか部内の対抗戦を見に行く理由なんて、よほど部員に親しい者がいるか、純粋に剣道が好きかくらいしかあり得ない。
いよいよ明日が土曜日、という日になっても俺は上手い理由を思いつかなかった。
―――今回はパスかな。正当な理由も無しに真行寺の為だけに観戦に行くなんて、どう考えても俺のプライドが許さない。
ああ、でも葉山あたりに誘われればさほど不自然じゃないかもな。
俺は昼休みの教室で談笑している葉山や赤池たちの輪にそれとなく加わった。すると向こうで何やらやけに盛り上がっている集団の中からひとりがこちらにやって来た。
「なあ、お前ら真行寺と仲良かったよな。一口乗らないか?」
「何の話だ?」
赤池が聞く。向こうで「赤池はヤバイだろー」なんて声が聞こえて来る。
「あ、いや…」
一瞬言い淀んで俺と赤池の顔を交互に見たそいつに
「俺はもう生徒会長じゃないし、赤池だって風紀委員長じゃないよ」
と笑顔を向けると、ほっとしたように切り出した。
「明日剣道部の部内対抗戦があってさ。優勝者当てのトトカルチョやってるんだよ。賞品は食券。今のところ駒澤と真行寺が人気を二分してるんだけどどうだ?」
なるほどね。そういえばこいつ剣道部員だったな。引退して高みの見物といったところか。
「僕はパス。ま、密告するつもりもないからうまくやってくれ」
赤池が言った。そりゃあそうだろうな。まさか元風紀委員長が易々とトトカルチョに手を出す訳にもいかないだろう。でも赤池はこういうことを毛嫌いするような頭の固いヤツでもない。オセロ大会の時も知ってたくせに見逃してくれたし。
「ごめん。ぼくも遠慮しとくよ」
葉山は賭け事自体好きじゃなさそうだ。
「面白そうだな。詳しく聞かせてくれよ」
俺は躊躇うことなく盛り上がる一団に加わった。試合を見に行く口実が思わぬところから降って沸いてきて、俺は内心ほくそえんだ。
そして土曜日が来た。昨日の晩真行寺が部屋に来て、見に来てくれと念を押して行った。
俺は相変わらず「気が向いたらな」としか言わなかったけど、もちろん行くつもりだった。
もし勝ったらデートする約束もしてしまった。真行寺はそれだけで嬉しそうにしていた。
試合は一、二年生全部員参加のトーナメントで行われる。対戦表を見る限り、決勝に真行寺と駒澤が勝ち残ることは明白だった。
下馬評では駒澤の倍率が僅かに下回っていた。これも俺にとっては好都合だった。あっさりと一番人気に賭けたりしたら面白味がないだろう。俺は僅差二番人気の真行寺に一票を投じた。
真行寺が勝てば俺も勝ち。そんな理由があったからデートしてやったんだと、後で言い訳するつもりでいた。普通の恋人同士ならデートするのにいちいち理由なんていらないんだろうけど。
もう試合は始まっている時間だ。でも俺は270号室で葉山と共に勉強をしていた。最初から見ていたい気持ちもあったが、こんなちょっとしたことにも素直になれない。
さすがにそろそろ…と思った時にタイミング良く葉山が後押ししてくれた。
「三洲くん、試合見に行かないの? もうすぐ終わっちゃうんじゃない?」
「そうだな。じゃあ食券の行方を確かめて来るよ」
そして俺ははやる気持ちを隠しながら道場へと向かったのだった。
道場は思いのほか多くの観客で埋め尽くされ、熱気が立ち込めていた。もちろんトトカルチョのせいだろう。
壁に貼られた対戦表を見ると案の定真行寺と駒澤のラインが赤く塗られていた。
ちょうど決勝が始まるところだった。
俺は二階の観客席に上がって空いた席を探した。何の気なしに振り返った野沢が俺を見つけて手招きする。野沢の隣の空席に腰を下ろそうとした時、面を付ける手を止めて真行寺がこちらを仰ぎ見た。俺を見つけて嬉しそうに微笑む。華やかな笑顔に少しだけ鼓動が早くなった。
まったく…。お前の野生の勘には感心するよ。この人で埋め尽くされた客席の中からよくすぐに俺を見つけられるもんだな。
「三洲も来たんだ。意外だな」
野沢が言葉とは違って少しも意外そうじゃない暢気な声で言った。
「ああ。食券がかかってるからな」
「それだけ?」
「他に何か?」
「別にいいけどね」
野沢はそう言いながら小さく笑う。なんだか見透かされている気がして落ち着かなかった。
そうこうしている間に決勝戦が始まった。
胴着に身を包み、防具を付け背筋を伸ばして竹刀を構える真行寺は、いつもの無邪気さの片鱗もなく凛々しくて、俺の目を釘付けにする。
こんな一面もあるんだよな。俺の前ではしまりのない顔ばかりしてるのに。思わず見惚れてしまう。素直にカッコイイと思うよ。そんな姿を見るのは好きだ。
…でも、不安になる。俺はこいつの全てを知っている訳じゃないと実感させられるから…。
ふと隣を見ると、野沢はとても嬉しそうに駒澤を見つめていた。
どちらも譲らない一進一退の攻防の中、先に一本を取ったのは真行寺だった。これでこのまま制限時間が終われば真行寺の一本勝ちとなる。
野沢が大きく溜息を付いた。
このまま終われ…! 持ちこたえろよ…。俺は心の中で声援を送る。いつの間にか握り締めていた拳にじっとりと汗が沸いていた。
でもあとわずかでタイムアウトという時になって、駒澤の胴が決まった。と、すぐに主審の終了を告げる声が響き渡る。
会場がどよめく。延長戦に突入だ。
始めの礼をする前に真行寺がちらりとこちらを見た。面を付けているので表情はわからなかったが、俺がいるのを確認することで心を落ち着かせているのかも知れない。俺はひとつ大きく頷いて見せた。
さっきまでの激しい攻防とは違い、今度はふたりとも静かに間合いを確かめていた。
時折触れ合う竹刀がカチカチと音を立てる。たくんさんのギャラリーは静まり返り、固唾を呑んで勝敗の行方を見守っていた。
ジリジリと時間だけが過ぎる。ふたりとも攻め入る隙を見計らっている。
長い睨み合いが続く。ふたりからものすごい気迫が感じられた。
ふと、駒澤がほんの少しだけ足を引いた瞬間、真行寺の竹刀が相手の面を取るべく振りかざされた。
よしっ! そこだ! 決まった…と思ったその時。
真行寺の面、の声に駒澤の小手の声が重なった。
―――パシーンッ!!
小気味良い音が響く。目にも止まらぬ素早さで駒澤の竹刀が真行寺の小手を捉えていた。
「小手あり!! 一本!!」
あ………。
会場からは大きな歓声。
「やった!」
隣で野沢が立ち上がり、小さくガッツポーズを決める。
俺は目の端でそれを確認しながら、いつの間にか詰めていた息をそっと吐き出した。
「あ、ごめん…」
野沢が俺を見下ろして言う。満面の笑みを浮かべながら。
「…何が?」
「いや、別に」
「おめでとう」
言って席を立った。眼下では礼が終わり真行寺が面を取るところだった。
取った面を手に頭を左右に振る。飛び散った汗が夕日に照らされてキラキラと輝いていた。
こちらを見上げた真行寺と一瞬だけ目が合う。悔しそうに結ばれた口元。
…絶対勝つって言ったくせに。今日のデートはお預けだな。
俺は寮までの道を足早に歩いた。
ごめん? ごめんってなんだよ野沢。晴れやかな笑顔と共に向けられた言葉。
別に謝られるような義理もないのに。あんなに嬉しそうに言われたら余計に悔しいじゃないか…。
もしも真行寺が勝ったとしても。俺はガッツポーズをしたり誰憚ることなく喜んだりすることは決してないけど。
うらやましかった。勝敗のことなんかじゃなくて、ああやって態度で示せることが。
俺たちが普通の恋人同士だったら…。あんなふうに素直になれたら―――。
「おかえり三洲くん。結果どうだった?」
「ああ。やっぱり駒澤は強いな」
「え? 真行寺くん負けちゃったの? あんなに張り切ってたのに」
「いい試合だったよ。でもまあ、あれがあいつの実力なんだろ。おかげで学食のチケットを取り損ねた」
「あぁ、例のトトカルチョ? 真行寺くんにかけてたんだ」
「…まあな」
そんなの本当はどうでも良かったんだけどな。試合を見に行く為の口実だったんだから。
「それでそんなに悔しそうな顔してるの?」
「え?」
いつも通りにしてるつもりだったのに…悔しそうに見えるのか?
「うそだよ。いつも三洲くんのポーカーフェイスは完璧」
そう言って葉山はクスクスと笑った。
「………」
からかわれたのか? 葉山に、この俺が。
俺は言い返す気力もなく自分の椅子に座り雑誌を手に取った。
『だからー、俺が勝つか駒澤が勝つかは応援席の愛の差ですからね!』
『じゃあお前は勝てないな。俺には愛なんてないんだから』
『ヒドイ…容赦ないなあ、ホントに。でもアラタさんが見に来てくれるだけで百人力っす!』
『勝手に言ってろ。でももし勝ったら…デートくらいしてやってもいい』
『やったね! そう言われたら負ける気しないっすよ、俺』
『じゃあ勝ったら試合のあと道場の裏で待っててやるよ』
昨夜の会話を思い出す。
バカ真行寺。俺の愛が足りないとでも言いたいのかよ…。
雑誌を眺めていても落ち着かない。夕飯まではまだ時間がある。
「葉山、ちょっと出て来る」
言い残して俺は部屋を出た。道場の裏の雑木林へ向かうべく。
すっかり日の暮れた林の中で、真行寺はひとりぽつんと木にもたれて座っていた。
カサリと俺が立てた足音に気付きゆっくりと顔を向ける。
少しだけ驚いた顔をして、すぐに照れたような笑みを浮かべた。
「負けちゃったのに、来てくれたんだ、アラタさん」
「お前こそ、何でいるんだよ」
たぶん真行寺はここにいると思って来たくせに、そんな言葉しか出て来ない。
「ひとり反省会っすよ。あーあ。何で勝てなかったんだろ」
小さい頃からやっているという剣道に取り組む時の真行寺は真剣だ。何がそんなにお前を惹きつけるのか、何の部活にも所属していない俺にはわからないけど。
真剣だからこそ、悔しさも人一倍強いだろう。俺は黙って隣に腰掛けた。
真行寺も何も言わない。沈黙が続いた。
「…県大会の個人戦で勝てばいいだろ」
予想外の言葉だったのか、驚いたように俺を見る。
「アラタさん、応援に来てくれる?」
「気が向いたらな」
「トトカルチョ、賭かってなくても?」
真行寺が寂しげに笑った。
「…知ってたのか」
「試合のあと、先輩が教えてくれたから。アラタさん、俺に賭けてくれたんだね」
「絶対勝つって言ってたからな」
「ごめん」
真行寺は俺から視線を逸らしてポツリと呟いた。
俺が賭けの行方を確かめる為だけに見に行ったと思ってるのか?
賭けなんて本当はどうでも良かったんだよ。ただお前の姿を見たかっただけなんだから。
そう言ってやれれば、こいつも少しは元気が出るんだろうけど。
「別にいいさ、俺の読みが甘かったんだ。…でも、県大会では勝てよ」
「県大会で勝っても食券は貰えないよ?」
「いいんだよ、そんなこと…」
お前が負けるところなんて見たくない。負けて落ち込んでるところなんて…。
「アラタさん…?」
真行寺が不思議そうに俺の瞳を覗き込む。
「お前が今度こそ絶対に勝つと言うなら見に行ってやるよ」
「ホントに?」
「ああ」
いきなり真行寺の顔に輝きが戻ったような気がした。
「じゃあ約束しよ? 俺、今度こそ絶対に勝つから見に来てよ」
真行寺の右手の小指が俺の小指に絡められる。
「ね、アラタさん。指きり」
「なんだよ、子供じゃあるまいし」
「いいじゃん…」
拗ねたように言いながら空いた方の手で俺の顎をそっと掴む。俺はゆっくりと目を閉じた。
ふわりと触れてすぐに離れる口唇。小さな約束のキス…。
こいつが試合に負けてくやしかったり。
人の関係をうらやましく思ったり。
いつの間にか真行寺への想いを、俺自身も認めていることに気付く。
俺は少しだけ首を傾けて、離れてしまった真行寺の口唇を追った。
…約束するよ。いつか必ず、この想いをお前に伝えること…
―――繋いだ小指にそっと力を込めた。
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