+++ 恋人の条件 +++



 そもそも事の始まりからして気に入らなかったのだ。
 気に入らないと思う理由を考えると余計に面白くない。
 なんだって、俺がこんな―――。


*** 祠堂学院高校 ミスター制服コンテスト ***

 新聞部主催のこのくだらない人気投票は、三年生が卒業したこの時期の恒例となっている。
 このコンテストの対象者は一年生のみ。二年生はすぐに階段長投票という実質上の人気投票があるから、それならば一年生で一番人気のある奴は誰だろうということでこの企画が持ち上がったらしい。
 階段長を選ぶ投票と違ってこの場合容姿のみで選べば良いはずなのだが、得てして毎年中身もある奴がこの賞を勝ち取っているようだった。
 去年の優勝者は圧倒的得票数で崎だった。俺も上位に入ったとかで景品をもらった覚えがある。大したものではなかったが。
 だいたいこんな馬鹿げたイベントには興味がなかったのだ。
 …新聞部が明日発行の『祠堂かわら版』の早刷りを生徒会室に持って来たりしなければ。


 放課後遅く生徒会室に持ち込まれたその新聞を、まだ居残って仕事をしていた役員達が手に取った。
「おおっ、結果出てるじゃん。一位は真行寺だってさ」
 真行寺、という言葉に思わず耳を傾ける。
―――真行寺が一位? ふん…。
 どれどれ、とその新聞に集まる奴らを横目に見ながら俺は黙々と仕事を続けた。
「へぇ、文化祭で王子様をやっただけはあるな」
「剣道部のホープらしいしな」
「うるさいけどいい奴なんだろ、きっと」
「そうだな、ここにちょくちょく出入りしてるから俺達はあのうるささを知ってるが、外見だけならイイオトコだよなー」
「あ、もしかしてこれで自信付けて更に三洲に言い寄ってきたりするんじゃないのか? なあ、三洲?」
 俺に話題を振るなよ。
「さあ…どうだろうな」
 わずらわしくて適当に相槌を打った。
「だめだこりゃ」
「ああ、全然三洲の眼中にはないって感じだな」
「せっかくミスター制服に選ばれても三洲が相手じゃムリムリ」
「でもこれをきっかけに案外真行寺を落とそうって奴が出てくるかも」
「おお、そうだな。それでそいつとうまくいけばここも平和になるのにな」
 ハハハ、と呑ん気に笑うそいつらに苛立ちを覚えた。
「少し、静かにしてくれないか」
 俺のひとことで一瞬にして静寂に包まれた生徒会室。俺にしては強い語気のその言葉にみんなの表情が止まるのがわかった。
「…ああ、悪い。今難しい書類を読んでたから。もう今日は帰っていいよ」
 微笑んで見せるとあからさまにほっとした表情をして、口々にごめん、だの悪かっただの言いながら身支度を始めた。


 ひとりになった生徒会室でかの新聞を手に取る。
 【ミスター制服コンテスト 結果発表!!】
 大きなゴシック体の見出しの横にはぎこちなく微笑む真行寺の顔写真があった。
 紙面の半分を使ったインタビューに目を通す。
『一位になった感想は?』
『いや〜俺なんかでいいんすかね、ホントに』
『そりゃもう、ずいぶん他を引き離してましたよ』
『なんか俺にはこんなの似合わないっすよ』
『何をおっしゃいますか。文化祭で王子様をあれだけ熱演したんだから当然の結果ですよ』
『ああ、あれは…へへへ、なんか照れますね』

 くだらない。あとに続く趣味だの部活だのの話題は適当に読み飛ばした。
 こんなことにこんなに紙面を割くなんて、新聞部も相当ネタに詰まってるな。

『さて、優勝賞品は映画のペアチケットですが、どなたと行かれますか?』
『え、あー映画っすか。そうだなぁ…』
『真行寺くんなら当然恋人のひとりやふたりいるでしょう?』
『とんでもない! 俺、モテないっすよ、ホントに』
『そんなはずないと思いますが(笑)謙虚ですね。でもこれ恋人と観るには最適なんで、ぜひあとで感想を聞かせてください』
『あー、じゃあこれから春休みなんで地元の友達でも誘って行ってきます』
『まあそういうことにしておきましょう(笑)それでは今回はおめでとうございました』
『ありがとうございました』

 ………。
 地元の友達、ね。ふーん…。
 その新聞をクシャッと丸めてゴミ箱に放り込んだ。
 まったくさっきから俺はなにに苛立っているんだか。
 軽く頭を振って仕事に戻る。
 でも、ひとりになって清々しているはずなのに、なぜだか思うように仕事は進まなかった。


 なんとか今日のノルマをこなしてそろそろ帰ろうかと思っていた頃、ノックの音が響くと同時に勢いよく扉が開いて真行寺が飛び込んできた。
「こんばんはっ! あ、アラタさんひとりだ。ラッキー!」
「うるさいヤツだな。もう少し静かに入って来いよ」
「すんません…」
 チラリと見上げて、片付けかけた書類にもう一度目を向けた。
 ここで帰り支度を始めたりしたらまるで真行寺が来るのを待っていたみたいじゃないか。
 でも真行寺はそんな俺にお構いなしに会長席の前まで来るとドサッと重そうなナイロンバッグを下ろして嬉しそうに話しかけてきた。
「ねえねえアラタさん。春休み、映画行きません?」
「行かない」
「そんな即答しなくても…。チケットもらったんすよ。だから一緒にどうかなーと思って」
 例の賞品のチケットか。いったいなんの映画だか知らないが…。
「だからってなんで俺が行かないといけないんだよ」
「や、ほら、せっかく二枚あるし」
「地元の友達とでも行けばいいだろ」
 さっき読んだ記事が頭をよぎってつい言ってしまった。
「え…もしかして、もう新聞読んだ?」
「コイビトと観るのに最適らしいな、その映画」
 お前の魂胆なんて見え見えなんだよ。
「やっぱり読んだんだ。でも、だからアラタさんを誘ってるんじゃないっすか」
 ちょっと待て。その「だから」ってのはなんなんだ。
「あ? 誰がコイビトだって?」
「…アラタさんです」
「勝手に言ってろ。俺は帰る」
 手にしていた書類をサッと書類箱に戻して立ち上がる。
「あ、ちょっと待ってよ」
 真行寺は慌ててバッグを肩に掛け直し、扉に向かう俺のあとを付いてきた。
「ねえアラタさんてば。コイビトって認めてくれなくてもいいから! 俺、アラタさんと行きたい。どうしてもダメ?」
「時間が取れるかわからない」
「少しくらいいいじゃないっすか。まだ春休みなんだし」
「そんな甘い考えで受験は乗り切れないんだよ」
「えーだってアラタさんなら今からそんなに頑張らなくてもどこだって受かるっすよ」
「ウルサイ」
「ね、ね、少しくらいいいでしょ? 映画なんてほんの一時間半くらいだし。家との往復入れたって三時間もあればオッケーっすよ」
「しつこいな」
「アタラさ〜ん…」
「ほら、早く出ろよ」
 生徒会室を出たらこんな話題もできないと思っているのか、扉のところで立ち止まった真行寺の腕を掴み廊下へ引っ張り出した。
「もう…」
 鍵をかけながら、後ろで真行寺がガックリと肩を落としているのがわかる。
 まあ、映画ぐらい、本当は付き合ってやってもいいんだけどな。
「………映画だけか?」
「行ってくれるの?」
 途端に弾む声。振り向くと案の定瞳を輝かせて俺を見つめる笑顔があった。
「映画だけかと聞いてるんだ」
「そりゃ俺としてはウィンドウショッピングしたり夕飯食ったりしたいっすけど」
「却下」
 それじゃまるでデートみたいじゃないか。
「じゃあ映画だけ。映画だけなら行ってくれますか?」
 映画だけ…それくらいならデートとは言わないよな。
「…仕方ないな。付き合ってやるよ」
「やったねっ!」
 歩き出した俺のあとを子犬のようにじゃれつきながらついてくる真行寺。
「ただし。新聞部には俺と行ったなんて報告するなよ」
「わかってますよぉ」
 暗い廊下にふたりの足音と、俺たちの会話だけが響いていた。


******************


 そして春休み。渋谷の街は大混雑だ。
 映画館の場所すら聞いていなかった俺は人混でも見失うことのない、こういう時だけは便利な真行寺の大きな図体の半歩後ろを歩いていた。
「あ、ここっすよ、アラタさん。ちょうど前の回が終わったところみたい」
 そう言って真行寺が振り返る。
 ―――これ…か?!
 俺は思わず立ち竦んだ。
 おい、恋人と観るのに最適な映画じゃなかったのかよ。どうせくだらないラブストーリーかなにかだと思ってタイトルすら聞いていなかった俺も悪いが…これは、反則だろ…。
 映画館のデカイ看板を見上げて動けなくなった俺に、真行寺は不思議そうな顔をして
「どうしたんすか? さあ、入りましょうよ」
促すように歩き出す。
「ああ、そうだな」
 なるべく平静を装って、意を決して一歩踏み出した。
 ―――悟られてはいけない。
 大丈夫だ、目を瞑っていれば…いや、そういう訳にもいかないか。なるべく画面を見ないように…それもムリだな。あの大画面はどこを向いても視界に入る。そもそも音は否応無しに聞こえてくるんだし…。
 やっぱりやめようと言おうか。でも理由を聞かれても今はうまい嘘を言える自信がない。マズイぞ。思考がうまく働かない。
 クソッなんだってこんなことに…。
 俺があれこれ考えを巡らせているうちにいつの間にか真行寺が入り口の係員にチケットを渡していた。
 もうここまで来て引き返せるはずもない。覚悟するしかないのか。
 映画は約一時間半。その間だけ、なんとしても気付かれないようにすればいいんだ。
 絶対に、こいつにだけは知られたくない。
 この三洲新が、ホラーが苦手だなんて―――。


 かなり混雑した館内。こんな映画を好き好んで観るやつがこんなにもいるのかと少々呆れ気味である。
 しかしこれならば隅のほうにしか座れないだろうと思ったのに、こういう時に限ってど真ん中の席がふたつぽっかりと空いているのが目に入ってしまった。気付かぬ振りで通り過ぎようとしたがそれは真行寺の目にもとまったようで、ヤツは持ち前の俊敏さでさっさとその『特等席』を確保し、にっこりと俺に微笑みかけたのだった。
「いい席が空いてラッキーでしたね」
「ああ、そうだな」
 普通の映画ならな。心の中で呟いて、こっそりと溜息をついた。

 ―――こういうのをトラウマと言うのだろう。
 昔、まだ小学校に上がるか上がらないかの頃、夏休みに遊びに来ていた年の離れた従兄弟たちに連れられて映画を観に行った。連れられて、というのは俺があとから付けた解釈らしく、親に言わせれば、やめておけという大人たちの言葉を振り切って俺が無理やりついて行ったらしいのだが。
 その時観た映画というのがホラーだったのだ。それがとにかく怖かった。だからと言って、もちろん俺は人前で泣き叫ぶような子供ではなかったから、観ている間も帰ってからもかなり平然としていたらしい。
 だが、それが却ってまずかったようで、抑えていたものは夜中に爆発した。その日から三日三晩、うなされ続けた。心配した親が病院に駆け込もうとするほど、それはひどい状態だったらしい。
 そんな訳でそれ以来、ホラーなんてものは俺の周辺から抹殺されていたのだ。
 それなのに………。
 いつもは長く感じられる予告編がやけにあっさり終わり、今正に(俺にとっては)封印された世界への扉が開かれようとしている。俺はゴクリと唾を飲み込んだ。


 最初のほうはまだ良かった。多少おどろおどろしいムードではあるが、これならテレビのサスペンスドラマと大差ない。それなりにビクつく場面はあったもののこれくらいならどうにか最後まで持ちそうだ。突然現れた白塗りの子供にはさすがにドキッとさせられたが、声をあげる程のものでもなかった。
 やっぱりホラーなんて、子供の頃に観たから怖かっただけなのだ。

 しかしやはりそれだけでは終わらなかった。
 散々恐ろしい体験をした女性が自室に戻りベッドに潜り込む。
 そうだ、そんなときは早く寝てしまえよ、と思ったのも束の間、気配を感じて布団の中を覗き込むと、そこにはカッと目を見開いた不気味な女がいた。
「ひっ…」
 思わず漏れた声は周囲の悲鳴にかき消された。隣で真行寺も「わぁっ」と声を上げている。
―――なんだ、こいつも怖いんじゃないか。
 でもマズイ。マズイよな。こういうのは金輪際ナシにしてもらいたい。
 いつもよりも幾分早くなった鼓動を、隣に気付かれないようにそっと深呼吸して静めた。

 ああ、だからそのアングルはやめろよ。
 斜め後ろからヒロインの背中を映した、いかにもこの先になにかあると言いたげな…。
 これじゃなにか出ると観ているものに忠告しているようなものじゃないか。
 ―――バカだな、この監督は。
 あ、あ、バカ。なんでその扉を開けるんだ。
 出る。絶対に出るぞ…。
 本当なら手で顔を覆ってしまいところだが、真行寺の前でそんな醜態を晒す訳にはいかない。俺はギュッと目を瞑った。…途端に館内が悲鳴に包まれる。
 心臓がバクバクと嫌な音を立てた。やっぱり出たか。ふぅっと細く息を吐き出しながら恐る恐る目を開けると、そこには恐怖に戦くヒロインの姿があった。
 なにが出たかは知らないが、だから開けるなと言ったのに。好奇心旺盛もたいがいにしておかないと痛い目を見ることになるんだよ。
 と、そこで俺はあることに思い当たった。
 そうだ、こういうものにはパターンがあるんだ。それさえ掴んでしまえばなんのことはない。ヤバイと思ったら目を閉じてしまえばいいのだ。そうすれば、ヘンナモノを見ることなく最後まで乗り切れるかもしれない。
 元来先を読む能力は人より優れていると自負している。案の定、俺の思惑通りにことは進み、それ以降はたいして嫌なシーンを見ずに物語は進んでいった。

 スクリーンには少し前から女性二人の日常的なシーンが映し出されている。
 今はなにも起きそうにない。少しは息抜きができそうだ。俺はいつのまにかガチガチに固まっていた身体をゆっくりとほぐすように椅子に深く腰掛け直した。
 背もたれに身体を預け、右の肘掛に手を置く。するとすかさず真行寺がその上に手を重ねてきた。反射的にそれを払いのける。
 …まったく。誰が見ているかわからないこんな場所で手なんか握るなよ。恥ずかしい男だな。目をスクリーンに向けたまま、肘で軽く小突いてやった。
 と、その時、喫茶店でのんびりとお茶を飲んでいたヒロインの足に何かが触れ、ふとテーブルの下を見る。するとそこには見てはいけないモノが…。
「!!!!!!!」
 今放したばかりの肘掛をガシッと握り締める。外に聞こえるのではないかと思えるほど大きな音を立てて心臓が暴れている。声にならない悲鳴とはこのことだろうか。カラカラに乾いた喉につっかえて、情けない声が出なくて済んだのは幸いだ。
 真行寺は小さく「ぅわっ」と叫んでいた。
 しかしこれはかなり意表を突かれた。なんでもない日常のシーンだったのに…いきなりあんなところから現れるなよ。今までにはないパターンだ。おかげで見てしまったじゃないか。これまでどうにかやり過ごしていたっていうのに。
―――この監督、どうやらただのバカじゃないらしい。

 今度は自室で眠るヒロインが猫の鳴き声をBGMにうなされている。
 …猫。猫か。さっきからチラチラと意味ありげに映し出されていた黒猫。あいつだな。あいつもなにか悪さをするのか。だから動物は嫌いなんだよ。しかも黒い猫なんて不吉なことこの上ない。猫の鳴き声が次第に甲高くなり、それが幾重にも重なって大きな音となる。
 その鳴き声にハッと目を覚ましたヒロイン。そしてそこには…
「ぐっ…!!!」
 喉の引っ掛かりを通り越して思わず出そうになった声を必死で飲み込んだ。
 大量の黒猫が…部屋を覆いつくしていたのだ。なんておぞましい! 気味が悪い! 見たくもない!! だが、あまりのことに目を閉じることも出来ずに俺の目はその場面に釘付けになってしまった。
「くっ…」
 え? その声に右隣を見遣ると、ヤツはあろうことかニヤケた顔をしていた。
「いくらなんでも…今のは出すぎっすよね」
 真行寺が小声で囁く。
 出すぎ………。確かにたくさんの黒猫がいたが…。
 ふと冷静になってみると周囲もクスクス笑いに包まれていた。
 ―――。
 笑うところか。ここは笑うところだったのか。本気で怖がっていたのは俺だけなのかよ…。
「そうだな、ハハハ」
 合わせて笑ってみたけれど、それはなんとも筆舌に尽くしがたい作り笑いになったのだった。

 そのあとは、もう散々だった。猫のシーンですっかり動転した俺は、目を閉じるタイミングを計ることができなくなり、終盤になってこれでもかというほど出てくるヘンナモノを何度も見るはめになった。
 そのたびにヒュゥッと息を吸い込んだりウッと悲鳴を飲み込んだり…。気付けば背中を冷や汗が伝い、肘掛を握り締める手にも力がこもっていた。
 だいたい、このヒロインの怖がり方が異常なんだよ。
 元々デカイ目をそんなに見開くなよ。美人が顔を歪めるとこんなに恐ろしいものなのか。見ているこっちまで怖くなる。
 髪の長いオンナと真っ白なコドモ。どうやらこのふたりは親子らしいがもうストーリーなんて理解する余裕もなかった。
 ………落ち着け。落ち着くんだ。よく見ればオンナの幽霊(?)は美人だし、コドモはカワイイ…かもしれない…。
 そう、こいつらだって本当はニンゲンなんだよ。撮影が終わればメイクを落として仲睦まじく談笑したり食事をしたりしてるんだ。ふん、微笑ましい光景じゃないか。
 そんな場面を必死で想像しながら気を紛らわせた。

 そうしてようやく流れ出したエンドロールに安堵しながら、俺は背もたれにグッタリと身を預けた。…我ながら情けないことだが。
 次第にざわざわと席を立ち始める観客達。でも俺はまだ立ち上がれそうにない。ゆっくりと大きく息を吐き出してなんとか気分を落ち着かせる努力をする。
「アラタさん」
 そうだ。終盤、すっかりこいつの存在を忘れていた。
「ん?」
 できるだけいつも通りにそっけなく返事をする。
「あの、俺はすっげぇ嬉しいんだけど、そろそろ放さないとマズイんじゃない?」
「え?」
「手…」
「あっ…」
 言われて我に返り慌てて右手を肘掛から、いや真行寺の手から離した。
 そう。俺がさっきからしっかりと握り締めていたのは肘掛ではなく真行寺の手だったのだ。
 じっとりと汗ばんだてのひら。真行寺の手の甲にはくっきりと赤い跡が付いている。そんなにきつく掴んでいたのだろうか。まったく、いつの間に…。
 隣でクスクスと笑う真行寺を横目で睨み上げる。
「そんな涙目で睨んだって迫力ないっすよ」
「………」
 バレてる…よな。
「かっわいかったなぁ、アラタさん。必死で俺の手を握っちゃってさあ」
「………」
 返す言葉もない。
「一生懸命声殺してたでしょ」
「―――」
 全部お見通しらしい。
「こういうの、苦手なんだ、アラタさん?」
 笑顔で俺の顔を覗き込む真行寺に…脱力した。
 俺のこの一時間半の努力はいったいなんだったんだよ…。 
「新聞部の言った通りだね。こういうことがあるから『恋人と観るのに最適』だったんだ」
「知るか、そんなこと」
「怖かった?」
「さあな」
「ま、いいけど。アラタさんの違う一面を見れてすっげぇラッキーだし。しかもアラタさんから手を握ってくれるなんて俺、シアワセ…」
「ウルサイよ」
 まったく…。なんて嬉しそうな顔してるんだよ。俺がこんな思いをしたってのに。思わず苦笑してしまう。
「あ、笑った♪ へへ。そろそろ行きません?」
「ああ」
 立ち上がった真行寺のあとを追って俺も席を立とうとしたが、膝がガクガクして思うように動けない。
「待てよ」
 振り返った真行寺が狭い席の間を縫って俺に駆け寄る。
「もしかして、立てない?」
 言いながら、またニヤケやがった。ここで立てない、なんて言えるかよ。
「………」
 真行寺は何も言わない俺の腕を掴み、
「ほら」
 強い力で引き上げた。そしてそのまま出口まで引っ張られていく。ふらふらとした足取りの俺をしっかりと支える腕は、思いのほか頼もしかった。


 ロビーに出て俺をソファに座らせると、真行寺は「ちょっと待っててくださいね」と言って自販機に走り、すぐにコーラをふたつ買って戻って来た。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 素直に受け取って紙コップのコーラを口にする。カラカラに乾いた喉に弾ける炭酸が心地よい。
 一気に飲み干して俺の前に立ったままの真行寺を見上げる。柔らかな微笑を携えたその端正な顔立ちにトクンと心臓が音を立てた。今日は心臓がおかしくなっているらしい。
「絶対に、誰にも秘密にしておけよ」
 低く、囁く。
「わかってますよ。せっかくこんな弱みを握ったんだからそうそう誰かに話したりしないって」
「お前…」
「あ、うそ。うそです! 弱みだなんて思ってませんってば」
 きつく睨んだ俺に慌てふためく真行寺を見て、ふっと笑みが零れた。
「俺をこんな目に合わせた罰として今日の夕飯はお前持ちだぞ」
「え…。夕飯付き合ってくれるんすか?」
「お前のおごりならな」
「うそっ。やったね! 今日は映画だけだと思ってたのに」
 せっかくここまで来たんだし、夕飯ぐらい付き合ってやってもいいだろう。
「何がいいすかね。ラーメンはいつでも食べられるし、かと言って焼肉は高いしなあ。ファミレスじゃ味気ないし…。あ、そうだ。この間友達と行ったイタリアン、安いわりにうまかったんすよ。そこにしません?」
 たかだか夕飯を食べるだけなのに、そんなに一生懸命になって。まったくこいつは…。
「俺はどこでも」
 そんな様子を見ながら、いつのまにか自分が自然に微笑んでいることに気付いた。
「もう立てますか?」
「ああ」
「じゃあ行きましょう、アラタさん」
 満面の笑みを浮かべながら真行寺が手を差し出す。
 俺は迷うことなくその手を取っていた。




 少しずつ、ふたりで過ごした記憶が刻まれていく。
 ふたりだけの秘密が、増えていく。
 こういうのも悪くないと思ってしまうのは、すっかりこいつのペースに嵌められたようで悔しい気もするけど…。
 そうだな、お前が俺の気持ちをわかるようになった時には、恋人と認めてやってもいいかもな。
 タイムリミットはあと一年。俺が祠堂にいる間しか待たないぞ。
 だから、早く追いついて来いよ。
 真行寺―――。


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