+++ MONO +++



「葉山、昨日言ってたところわかったか?」
 昼休みの教室で五時間目の英語の課題に取り組んでいる葉山の前の席に座り声を掛けた。
「う~ん。今赤池くんに聞いてたんだけど呼ばれてどこかに行っちゃったから…」
「どこがわからないんだ?」
「え~とね…」
 昨夜、自室でこの課題に取り組んでいた葉山が、遠慮がちにわからないところを教えて欲しいと言ってきた。俺はとうにその課題を終え、受験の為の問題集に没頭していた。
 そんな時だったから、気をそがれて鬱陶しいと感じてもいいはずなのに、そんな気持ちは一切沸かずむしろ嬉しい気分になった。
 このところ、葉山は特に英語に力を入れている。
 崎を追って留学する気になったのか、それとも単なる受験の為なのか、進路に関して葉山はなにも言わないから、俺も敢えて聞かない。
 次々に繰り出される質問になるべくわかりやすく噛み砕いて説明しながら、以前よりも質問の質がだいぶ高度になってきたな、と思う。それでもまだまだ留学どころか、受験のレベルにも達してはいないのだけれど。
 少しでも、がんばる葉山の手助けになってやりたい。他人の為に、なんの見返りも期待せずにこんな気持ちになるなんて、まったくもって俺らしくないことだけど。
 自分の中にこんなに優しい気持ちがあるなんて、我ながら驚くべきことだ。
 ところが終始多忙な生徒会長の俺は、突然の呼び出しをくらってしまった。
 今度ははっきりと鬱陶しさを感じた。でもそんな感情はおくびにも出さずにいつものように笑顔を作り、葉山にひとこと詫びてからやっかいごとが待つ場所へと出掛けて行った。
 結局話が長引いて消灯までに部屋には戻れなかった。

 そして今、昨夜の続きを教えるべく、俺は葉山と向かい合っている。
 俺の言った言葉にいちいち頷きながら、自分なりの答えを導き出していく。
 音楽を嗜む繊細な指がシャーペンを持ち、ノートにきれいな筆記体が綴られていく様を、俺はぼんやりと眺めていた。
 ふとペンを止めては考えるように首をわずかに傾けるたびに揺れるさらさらとした癖のない綺麗な髪。
 その自然のままの美しさにふいに触れてみたくなって手を伸ばしかけた。
 ―――何をしようとしているんだ。すぐに我に返り宙に浮いた手を不自然にならないようにゆっくりと机の上に戻すと、指先に消しゴムが触れた。何の気なしに手にとって真剣な表情で教科書に向かう葉山を見つめる。
 葉山の指先が教科書を辿り、わかった、とひとこと呟いて俺に笑みを向けた。
 そしてまた綴られていく文字。
「ね、合ってる?」
「ああ、ちゃんと出来てるじゃないか。でもここ、スペルが違う」
「あ…」
 俺が指差すと、教科書と自分のノートを見比べて、ああ、と溜息を付いた。
「詰めが甘いな、葉山」
「ホントだね、これじゃ試験の時マルにしてもらえないや」
「でも会話をするには十分だ」
「え?」
 わずかに頬が染まった。相変わらずわかりやすいな、葉山。やっぱり留学も念頭に置いているという訳か。
 書き間違いを正そうと、ノートに目を向けたまま、葉山の右手がペンを置き無意識に定位置にあるはずの消しゴムを探して彷徨う。
「あれ? どこにいったんだろう」
 そう言われるまで、俺は手の中にあるその存在をすっかり忘れていた。
「おかしいなぁ…さっきまで使ってたのに」
 教科書を持ち上げてその下を確認し、次は辞書を手に取った。あれ? あれ? と言いながらペンケースを開けて中を覗き込み、そこにもないとわかると今度はノートを持ち上げた。
 今までそこに文字を書いてたんだ、その下に消しゴムなんかが入り込んでたらいくらなんでもわかるだろう、葉山。
 俺は思わずくすりと笑った。
「三洲くん知らない?」
「さあ?」
 言いつつも俺は目の前で消しゴムを弄ぶ。葉山は俺の手の中のものに気付きもせずに今度は机の下を探し始めた。
 そんな姿を見ているのが楽しい。
「葉山」
 呼ばれて机上に戻って来た葉山に俺は手を広げて見せた。
「あ、ありがとう」
 今まで俺がわざと隠していたのだと、そんなふうに疑いもしない。俺から消しゴムを受け取ろうと手が伸ばされる。
 俺はまたぎゅっとそれを握り締めた。
「なに?」
 突然の俺の行動に不思議そうな目をしながら問いかける。
「はい」
 もう一度手を広げると、葉山の手が消しゴムを掴む前に、また拳を握った。
「三洲くんっ…」
 俺が意地悪でしているとやっと理解したらしい葉山がぷっと頬を膨らませながら、それでも目元を綻ばせて今度は本気で消しゴムを取り返しにかかる。
 俺は笑いながら何度かグーとパーを繰り返し、そのうちパッと葉山の指先が消しゴムをわずかに捉えて、でも掴むことはできずに床に転がっていった。
「もうっ…!」
 指先が、触れた。それだけなのに。
 なにかがふわっと、胸の奥の柔らかい部分を掴んだ気がした。

 可愛いよな、葉山は。すぐにむきになるところも、隠し事もままならないような素直すぎる反応も。
 自然に零れてしまう笑み。消しゴムを拾い終えた葉山は、笑い返しながら人差し指で俺の額を小突くふりをした。
 そんな仕草が可愛くて、愛しくて…。
 ―――愛しい? バカな。そんな感情を俺が葉山に持つはずがない。


 与えることは得意でも、本当の意味で求めることはしないあいつに、いつももどかしさを感じている。それをさせないようにしているのはたぶん、他ならぬ俺自身なんだろうけど。
 だから素直に俺を頼ってくれる葉山にはなんでもしてやりたい気分になる。
 恋愛感情がある訳じゃないんだ。
 動揺を隠して一瞬だけ目を閉じた。

「さて葉山、次はどこだ?」
 俺がそう言った時、
「なんだ葉山、三洲に教えてもらってたんだ」
 頭上から声が降ってきた。
「あ、赤池くん。おかえり」
 葉山が顔を上げて破顔する。
「さっきのところわかったか?」
「うん、三洲くんって教えるのがとっても上手なんだ」
「なんだよ、僕の教え方が下手だとでも言いたいのか?」
 赤池が軽く葉山の頭を小突く。
「いたっ。そんなこと言ってないだろ、なにするんだよもう」
 言いながら、葉山が赤池の手の甲をパチンと叩いた。
「いってぇ。おい、僕は本気で殴ってないぞ」
「ぼくだって本気じゃないよ」
 いや、どう見ても今のは赤池の方が痛そうだったぞ、葉山。
 気を許した友人同士の他愛もないやりとり。俺には介入できない領域だ。
 その様子を微笑ましく眺めながら、何かがチクリと胸を刺すのを感じていた。
「続きは赤池に聞けよ、葉山」
「あ、うん。ありがとう三洲くん」
「どういたしまして」
 俺は微笑んで席を立った。入れ替わりに赤池がそこに座る。
 まだなんだかんだと言い合いをしながらも、ふたりとも実に楽しそうだった。


 自分の席に戻り、ふとグラウンドに目を向ける。
 サッカーを楽しむ一群の中に一際目立つ長身を見つけた。
 元気に走り回る姿を目で追う。
 あいつの放ったシュートが見事にゴールを揺らし、大きくガッツポーズを決めた。
 きっと満面の笑みを浮かべていることだろう。
 爽やかな笑顔を思い浮かべて目を閉じた。
 そう、俺が好きなのは…。
 好きなのは。
 ―――自分に言い聞かせるように、その名前を心の中で呟いた。



RR top    novels top    home
dc