+++ 日常のラビリンス +++



 生徒会長の役職を退き体に暇が出来た分、心が忙しくなった。
 それまでは雑多なことに紛れさせて押さえつけてきた感情が暴走しそうになるのを必死で食い止めていた―――。


「アラタさん、好きだよ…」
 いつもの行為のあと、いつものように真行寺が囁く。
 そして俺はいつものように何も答えない。
 それでもお前は、いつも俺を抱き締める。
 伝わりきれない想いを全身で現すかのように。
 本当は、痛いほど伝わっているのに。
 いつも、いつも、その優しさも愛情も、俺の心から溢れ出して、息が出来なくなるほどなのに…。
 でも『いつも』はいつまで続くんだろう。
 『日常』は毎日繰り返すけれど、その中で人の心は変質する。
 時に想いは深くなり、でも突然姿を潜めることもある。
 なんて不確かで曖昧な世界。
「…俺のどこがそんなに好きなんだ?」
 ふと、訊いてみたくなった。
「全部」
 即座に予想通りの答えが返って来たのに安堵しつつも俺はそれがあまりにもいつも通りなことに訳のわからない苛立ちを覚えた。
「全部? 俺の全部がお前にわかる訳がない」
「わからないところも含めて全部だよ、アラタさん」
「なんでわからないところまで好きなんて言えるんだよ。俺がなにを思っているかもわからないくせに」
 知れず語気が強くなった。
「俺のわからないところでなにを思ってたとしても。俺には今ここにいるアラタさんがすべてだから」
「それが全部虚像だとしたら? 全部作り物だったらどうなんだよ、真行寺」
「それでもいいんだよ。虚像だって、わからないところがあったって好きなことに変わりはないよ」
「なんでだよ。なんでそんなふうに思えるんだよ」
 こんなふうに突っかかるなんてどうかしている。心の隅でわかっていながら俺はマイナスに働く思考を止められなくなっていた。
「疲れてるの? なんだかいつものあなたらしくない」
「俺らしいってなんだよ。どんな俺なら俺らしいんだ? こんなのは不満だとでも言いたいのか? お前が思ってる俺はどんななんだよ」
 次第に早口になっていくのがわかる。コントロール出来ない感情。
 こんなもの、お前に会うまで知らなかった。知らなければ良かった。
 自分が自分でいられなくなる不安なんて。
「不満とかそんなこと思ってないけど。だっていつもなら、お前が俺に惚れるのなんか当然、みたいに言いそうじゃん。なのに今日はいきなり変なこと訊くし。俺がなんて答えるかなんて最初からわかってたでしょう?」
 だからその日常こそが不安なんだよ。いつまで続くのか、いつ途切れてしまうのか。
 予測できない事象にその都度対応するのなんて慣れたものだった。だけどそこに自分自身の想いが入り込むと途端にどうしていいかわからなくなるなんて。
「お前がどう答えるかなんて考えもしなかったしわかろうとも思わない」
 …これは嘘だ。わかっていたから、だから少しでも心を落ち着かせたくて訊いた。わずかに残っている冷静な感情でそう考えたけど、違うんだ。求めているのはそんなありきたりなことじゃなくて、そうじゃなくて…。
「それでもいいけど…。でも俺はアラタさんの考えること、少しでも知りたいな」
「そんなもの、知らなくていい。お前なんかにわかって欲しくない」
「そうだね。わからなくても好きだから関係ないか。…ああでも、わかったって好きだけど」
「だからなんで…っ」
 堂々巡りだ。真行寺を困らせてどうしようというんだ。こんなの八つ当たりだ。馬鹿げている。
「もういいじゃん。俺はアラタさんが好き。そんなの当たり前なんだからさ。アラタさんこそ何が不満なの?」
 真っ直ぐに俺を見つめる眼差しに偽りがないことなどわかっている。だけどその当たり前だという根拠はどこにあるんだよ。それがわからないから、だから…。
「なんでわからないんだよ…」
「さっきはわからなくていいって言ったくせに」
 真行寺が困ったように肩を竦めて密かに微笑む。
 これじゃまるで駄々を捏ねる子供みたいだ。
 
 わからないで欲しいと思う気持ち。
 でもそれをわかって欲しいと思う矛盾。
 壊してしまいたい日常。
 でもいつまでも続いて欲しいと思う矛盾。
 自分の意志とは関係なく暴走する思考。
 止まらない感情。
 どうしていいのかわからない。
 自分のことなのにつかみ所がなくて、何に縋ればいいのかさえわからなくて、たったひとりで迷宮に紛れ込んだような感覚。
 こんなに近くにいるのに。手を伸ばせば触れる距離にお前がいるのに、でも、だから抜け出すことが出来ない心の中の迷路。

 ふいに暖かい指先が頬に触れ、いつのまにか涙を流していたことに気付いた。
 明らかにこれは『日常』ではない。お前の前でも、誰の前でも涙なんか見せたことはなかったのだから。
 でも真行寺はいつものように優しい瞳で見つめたままそっと俺の額に手を伸ばした。
「大丈夫だよ。アラタさんはいつでもアラタさんだから」
「―――」
「ねぇ、今日はもう寝よう? 少し熱があるみたい」
「真行寺…」
「今日は俺、先に寝ないでちゃんとアラタさんが寝付くまで見ててあげるから。ね?」
 額に口唇が触れ、ゆっくりと身体を横たえられる。
 暖かな腕に包まれて心が溶かされる。
 いつも通りの真行寺に、少しだけ安心して俺は目を閉じた。

「アラタさん、好きだよ…」
 いつものように真行寺が囁く。
 そして俺はいつものように何も答えない。
 これが今ある『日常』。
 
―――なあ真行寺。『いつも』はいつまで続くんだ?
 いつもここにあるこの腕は。
 いつも俺を苦しめるこの想いは。
 いつも、いつも、いつも………。

 永遠に続くかのような『日常』。


 だけどいつか俺たちは―――。


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