+++ オダヤカナトキ +++
「おや、珍しい」
さっきからそわそわと出かける準備をしている葉山を横目で見ながらノックされた扉を開けると崎が立っていた。
俺のいつもの出迎えの言葉に一瞬だけ眉を寄せたものの、崎は部屋の中へ視線を移し、「託生は?」とひとこと聞いた。
「あ…」
その声で来訪者を察した葉山がこちらに顔を向ける。一瞬の笑顔はすぐに複雑な表情に変わった。
俺が部屋の奥へ戻るのとすれ違いに葉山がドアの外へ消える。
閉まったドアがパタンと音を立てた。
今朝、遅めの朝食から戻った葉山は机に向かってテキストを開いてはいたが、どうにも手に付かないという様子で落ち着きがなかった。
なにかあったのかと危惧したものの、そのうちいそいそと支度を始めたので大方崎とデートの約束でもしているのだろうと予想していたのだが。
ほんのわずかの間廊下で崎と話していた葉山が大きな溜息と共に部屋に戻って来た。
「どうした、葉山。溜息なんか付いて」
「あ、ううん、別に。なんでもないよ」
言いながら俺に向かって笑って見せる。とてもわかりやすい作り笑いだ。
「ならいいけど」
崎のことだ。どうせ急な用事でも入って今日の約束を反故にしたのだろう。葉山は楽しみにしていただろうに。残念だったな、葉山。
俺はそれ以上詮索することはせずに中断された問題集の続きにとりかかった。
―――とりかかった、のだが。
「はぁ…」
葉山もテキストを広げたものの、さっきからページを捲る音もシャーペンを走らせる音もちっとも聞こえず、代わりに聞こえてくるのは溜息ばかり。
「ふぅ…」
………これじゃ気になって集中できやしない。
これが真行寺なら溜息さえも俺の気を引く手段に思えて敢えて無視を決め込むところだが、葉山にはそんな邪念がないとわかっているだけに、ついかまってやりたくなる。
―――仕方ないな。俺はくるりと椅子を回転させ、心なしかしょんぼりした葉山の背中に声をかけた。
「葉山、麓の本屋に行く用事があるんだけど、これから一緒に行くか?」
「え? でも勉強、途中なんじゃない?」
「ああ、でもたまには息抜きも必要だな、と今思い立ったんだ。葉山が行かないなら俺ひとりで行って来るけど、どうする?」
「あ、行く行く! ぼくも買いたいものがあるんだ」
「じゃあ決まり。用意しよう、葉山」
「うん」
つい今しがたまでの溜息はどこへやら、俺に向けられた笑顔は今度は本物だった。
同室になって半年も経つというのに、これが葉山と俺との"初デート"だ。あとで崎に知れたらどんな顔をするだろう。まあ、ドタキャンするあいつが悪いんだ。せいぜいやきもきすればいいさ。
麓の街に着いたのは昼を少し回った頃だった。
「食事どうする、葉山?」
「あー、まだそんなにおなか空いてないけど…」
「じゃあ先に買い物を済ませるか」
「そうだね。三洲くんは本屋に用事だっけ?」
「ああ。葉山は? なにか買い物があるんだろ?」
「うん、CD」
そうして俺たちは駅から直結しているファッションビルの上階へと足を運んだ。
幸いそのフロアには大きめの本屋とCDショップが隣接している。あちこち歩き周らずに済むので好都合だ。
混んだエレベータを避けてエスカレータを使う。わずかに前を歩いていた俺が一段上から葉山を見下ろす形になった。あまり身長の変わらない葉山をこの位置から眺めることはめったにない。少し顎を上げ、上目遣いになって俺に話しかける葉山がやけに可愛く見える。
目的のフロアに着いて目線が同じになると同時にいつもの立ち位置に戻ってしまうのが少し残念だった。
「葉山はそっちだろ」
「うん、またあとでね」
「迷子になるなよ、葉山」
「ひどいなあ、三洲くん。いくらぼくでもこんなところで迷子にならないよ」
ふくれた葉山に、
「はは。じゃあまたあとで」
思わず笑いながら、それぞれ目的の場所へと向かったのだった。
こんなとき、恋人同士や親しい友人同士だったらお互いの欲しいものを一緒に見て回ったりするのだろう。
葉山の場合、例えば崎とだったら当然そうするだろうし、もしかしたら赤池あたりが相手でもふたりであれこれと言い合いながら買い物をするのかもしれない。真行寺だったら、当然葉山に付いて周るだろうな。
俺にとって葉山はもちろん親しい部類に入る。葉山にとっても同様だろう。だけどこんなとき、どちらも当たり前のように別行動を選択する。まあふたりで出かけることなど今までなかったのだから当然と言えば当然だが。
互いの秘密を知ることで、ある意味一番近くにいる存在でありながら、どこか馴れ合うことのない葉山と俺の関係。でも決して居心地が悪いわけではない。たぶんこれがお互いにとって最適な距離なのだろう。
もしどちらかが干渉し過ぎれば簡単に壊れてしまいそうな微妙な距離でありながら、意識せずとも互いの領域をわきまえられるというのは、考えてみればなかなか奇特なことのような気もする。
結局先に買い物を終えた俺がCDショップまで迎えに行く形になったので、葉山が迷子になることはなかった。そして目当てのCDはすぐに見つけたものの、他のCDも見るごとに欲しくなるらしい葉山が手に取る一枚一枚を、葉山の解説付きで眺める。こと音楽のこととなると饒舌になる葉山にいつもと違った一面を見たような気分になる。この指揮者がどうだとか、この編曲がどうだとか、嬉しそうに話す葉山に相槌を打ちながら、こんな"デート"もたまにはいいもんだと、俺もいつしか楽しい気分になっていた。
昼食は外で摂ることにした。このビルの最上階にもレストラン街があるのだが、如何せん人が多すぎる。それに、なんでも外に葉山オススメの、ボリュームがあっておいしくて安い店、があるそうで、そこに連れて行ってもらうことになったのだ。
葉山がエスコートするように半歩先を歩く。こんなふうに葉山の後ろを歩くことも考えてみれば初めてかもしれない。毎日同じ部屋で過ごしている仲なのに、一歩外に出ただけで次々に新たな発見があってなかなか面白い。
駅からそう歩くことなく、メインストリートから少し脇道に入る。小ぢんまりとした、一見レストランとはわからないような店構え。こんなところにレストランがあるなんて、三年間祠堂にいながらまったく知らなかった。
誰に連れてきてもらったかなどは聞かずともわかるので敢えて聞くことはしないが、まったくあの男はいつどこで情報収集しているのやら。
せっかくのボリューム満点のメニューだったが、俺も葉山もそう大食漢なわけではないのでその恩恵に預かるどころか食べきるのに精一杯。だが、成程、味のほうは抜群だった。
こんなところにあいつを連れて来てやれば大喜びするだろうと、そんな考えがふと頭をよぎったが、こんなところで崎なんかと鉢合わせしたらなにを思われるかと思い至ってやめにした。
「あー、さすがにおなかいっぱい」
「ああ、腹ごなしに少し散歩でもするか」
「そうだね」
本当はのんびりしている場合ではないのだけど。元来今日は一日勉強漬けの予定だったのだ。俺一人なら、食事もせずに買い物だけ済ませてさっさと帰途に着いただろう。まあ…そもそも俺一人なら出かけるなんて考えもしなかっただろうが。
だが、葉山もそれなりに楽しんでいるようだし、なんと言っても俺自身がこの葉山とのひとときを楽しんでいるんだから仕方ない。
「今やるべきこと」と「今しかできないこと」が似て非なるものだということを、不本意ながら、誰かのせいで気付かされたしな。
目に止まるショップをひやかしながら、それぞれに文房具や日用品を買っていたら、気付けばかなりの時間が経ち、ふたりとも結構な大荷物になっていた。
それほど重い訳でもないのだが、一息つきたい気分で、ちょうど通りかかった公園の前で足を止めた。
「少し休んでから帰るか」
「うん。ちょっと疲れちゃったね」
同意した葉山と共に傍らのベンチに腰を下ろす。
目の前の芝生ではボール遊びをする家族連れの幸せそうな笑顔。
どこからか駆け寄ってきた子犬が葉山の足元でクンクンとほお擦りする。
葉山は一瞬ビクリとしたものの、すぐに目を細めてその子犬を愛しげにみつめていた。
見上げた空はもう高く、冬が近いことを知らせていた。
冬が来れば受験も本番。もうこうしてゆっくり街で過ごすこともないだろう。これが、最後、かもしれない。そう思うとなんとも言えない気分になる。
俺は大きく伸びをした。
「気持ちいいよね」
「ああ、いい季節だな」
「こういう気持ちいい季節ってさ、一瞬だよね」
「そうか?」
「うん。だって春になったと思ったらすぐ梅雨になっちゃうし、今だって、もうすぐそこまで冬が来てるって感じ」
そう言って空を見上げる。
どこまでも清々しい蒼。まだ冷たすぎない風が頬をかすめて心地よい。
俺と葉山はしばらく黙ったまま薄く流れる雲を見ていた。
一年の中で心地よい季節は一瞬。
そしてたぶん、あとで思い返せば一生のうちで祠堂で過ごした三年間は一瞬のように感じるのだろう。
今ここにあるたくさんの出来事も、想いも、すべて高校生活の思い出というひとつの箱に収まってしまうときがくる。
現在(いま)が過去になったとき、俺はどんなふうに思い返すのだろう。
ただ楽しかったと、風化した記憶を懐かしんだりするのだろうか。
「そろそろ行かない?」
どのくらいそうしていたのか、ぼんやりと、そんなことを考えていた俺を、葉山の声が現実に引き戻した。
「ああ、そうだな」
いつまでもこうしていられたらいいのに、現在(いま)が続けばいいのに、なんて現実離れした空想を振り切って、重い腰を上げた。
白線で区切られただけの歩道。並んで歩いていると葉山はふらふらと車道のほうへ寄っていく。後方から聞こえてきたエンジン音に、俺は慌てて葉山の肩に手を回し引き寄せた。
「危ないよ、葉山」
「あ、ありがとう」
「もしかして、そっち側歩きにくいか?」
歩きながら、回した手でそのまま自分の左側に移動させる。
「う〜ん、そうみたい。なんかこっちのほうが落ち着くや」
人と並んで歩くとき、人それぞれ癖みたいなものがあるようで、いつもと逆側を歩いているとなんとなく、会話の為に顔を横に向けるのさえぎこちなくなってしまうことがある。
俺は特にどちらがいいかなんてこだわったことはなかったが、右側に回ってみてどことなく違和感を覚えた。
右側を歩くということは、右利きの人間の場合、利き手が空いているのでいざというときにとっさに動きやすい訳だから、本当ならそのほうが好ましいはずなのだけど。
逆に左側を歩くということは隣の人間にすべてを預けるようなものだ。葉山がその位置のほうが慣れているのはわかるとしても、いつの間に俺まで人に身を預ける側になってしまったんだか。心の中で苦笑しつつも、空いた右肩にふと寂しさを感じてしまうとは、俺も相当重症らしい。
「あ…。三洲くん三洲くん」
葉山が俺のコートの袖口をくいくいと引っ張りながら自販機の前で立ち止まる。
「なに、葉山」
「これって前に真行寺くんが言ってた期間限定のやつだよね」
「ああ、そうみたいだな」
期間限定パッケージの缶コーヒー。味は変わらないのだが、この缶が欲しいと言っていたことを俺も思い出した。
「買って行ってあげようかな。真行寺くんってずっと練習でしばらく街には下りられないって言ってたよね」
「そこまで甘やかす必要もないと思うけどな」
「でもいつもお世話になってるし」
「世話してるのは葉山のほうだろう」
勝手に懐かれて、むしろ迷惑なんじゃないのか、葉山?
「そんなことないよ」
笑いながら言って葉山が財布を取り出す。
「あ、細かいのがないや。どこかで崩さなくちゃ…」
「なにもそこまでしなくても…」
「でも、これって珍しいんでしょ?」
小首をかしげて尋ねられ、
「…俺が買うよ」
つい言ってしまった途端、葉山が柔らかい笑顔を浮かべた。
「ああ、うん。そのほうが喜ぶね、きっと」
「どうだかな」
断言されて、照れ隠しのような言葉を呟きながらコーヒーを買う俺を、葉山はとても嬉しそうに眺めていた。
ガチャンと音を立てて出てきた熱いコーヒーを、俺は殊更無造作にコートのポケットに入れた。
せっかくの土曜日に祠堂に戻るにはまだ早い黄昏時。帰りのバスに祠堂の生徒は見当たらないようだった。
一番後ろの席にふたり並んで座る。程なくしてバスが動き出すと、葉山はディパックからゴソゴソとポータブルCDプレイヤーを取り出した。
「ちょっと聴いてみていいかな」
「ああ、さっき買ったCDか?」
「うん」
「どうぞ。早く聴きたかったんだろ?」
「良かったら三洲くんも一緒に聴かない?」
「え? でも」
「カノンがね、いろんな楽器で演奏されてて面白いんだ。はい」
そう言って葉山はヘッドフォンの片方を俺に寄越した。
「だけどこれじゃ、左右のバランスが悪くてちゃんと聴けないだろう?」
「いいよ、あとでゆっくり聴くから。ぼくひとりで聴くのももったいないし」
まあ、たまには葉山の趣味に付き合ってみるのも悪くないだろう。せっかくの葉山の好意を無駄にしたくはないし。受け取った片方だけのヘッドフォンを、俺も耳に当てた。
心地よい音色に身を委ね、外の景色に意識を飛ばす。そうして何曲目かのカノンが流れ始めた頃、肩にコツンと葉山の頭が落ちて来た。
ゆっくりと顔を戻し、穏やかな葉山の寝顔を見てほっとする。今朝みたいな無理やりな笑顔は見たくない。
常にたくさんの荷物を抱えている葉山に、少しでも安らいでもらえるのが嬉しかった。
…今日は誘い出して正解だったな。
一緒にいても心を乱されることのない関係。いつも一緒にいたいとか、触れたいとか、好きだとか。そんな感情がないから穏やかでいられる。たぶん葉山も、自分も。
少し膨らんだコートのポケットに触れてその存在を確認する。
―――帰ったらすぐに届けてやるから。だから今は少しだけ…。
優しい旋律に包まれながら、葉山の頭に凭れて俺もゆっくりと目を閉じた。
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