+++ たいせつ +++
いつものように無駄に長い学園長の訓話が終わり、生徒達がざわざわと席を立ち始める。 さりげなく二年生の集団へと視線を滑らせ、すぐに戻す。 目当てのものが見つからず、だからと言って頭を巡らせてまで探すことも出来ず…。 にぎやかな友人たちに囲まれて昼食を摂るために学食へ移動しながら、気付けば何度もその行為を繰り返していた。 ほぼ一ヶ月ぶりに会った友人たちの会話は尽きることがなく、食事の最中もおおいに盛り上がっていた。話題の中心は受験のこと、この間の模擬テストがどうだったとか予備校の授業がどうだとか。 そしてこの年代ではお決まりの恋の話。予備校で知り合った可愛い女の子をどうやって落とそうかなんて、そんな話がやけに遠くに聞こえる。 祠堂の生徒のほとんどが押しかけた学食は通常以上の混雑だ。この中から人ひとりを見つけ出すのは困難を極める。 それでもいつもどこからともなく現れるあいつのことだから、今日だってどこかで会えるだろうと高をくくっていた。 このまま何もなければ東京まで一緒に帰ってやってもいいかな、なんて珍しく素直な気分になっていたのに、いつもはうるさいほどまとわり付いてくるくせに、こういう時に限って姿さえも現さないなんて、ホントに間が悪いというかなんというか。 だからと言って、自分から探しに行くにはプライドが邪魔をする。 知らず溜息が零れた。 「三洲、疲れてるのか?」 微かな溜息も聞き逃さない心配性の友人に笑顔を向ける。 「いや、大丈夫だよ」 「三洲はなんでも頑張るからなぁ」 「そうそう。間違っても倒れるほど勉強するなよ。そうでなくても三洲の成績ならどこだって受かるんだからさ」 「そんなことないって」 「謙遜するなあ。まあ三洲らしいけど。だけどホントにムリだけはすんなよ」 「お前、そんなこと言って三洲を蹴落とそうとしてるんじゃないだろうな」 「バッ! 俺は本当に心から三洲を心配してるんだよ」 「どうだかな〜。人を安易に信じるなよ、三洲」 「おい、どういう意味だよ」 ふざけ合う友人たちを見ていると自然と心が和む。 「ありがとう。心しておくよ」 「あ、ひでー」 俺の言葉に情けなく眉を寄せたそいつの様子に笑いが起こった。 不本意ながら大勢の前で倒れた過去があるだけに本気で心配してくれる友人たち。冗談めかした言葉の中にも優しさが伝わってくる。 今までも、いつもそばにいて気にかけてくれていたのに、俺はそんな友人たちの言葉を軽く受け流して、どうせここにいる間だけの付き合いだからといいようにあしらっていた。決してそうは見えなかっただろうけれど。 俺に寄ってくる者たちを『とりまき』という名でひと括りにして平等に笑顔を見せて。 きっと本当に俺を好きでいてくれたのに。 俺もきっと最初から好きだったんだ。 だから嫌われたくなくて、期待されれば裏切りたくなくて。 そんな簡単なことに、やっと気付いた。 「なあ三洲。休み中になんかあったか?」 ひとしきり笑いあったあと、なんの脈絡もなしに問い掛けられた。 「なんかって…特に変わったことはないけど」 「ほんとに?」 「ああ、なんだよ突然」 「いやさ、なんかこう、雰囲気が変わったなーと思って」 「雰囲気? どこが?」 思い当たる節はない。 「どこってことはないけどさ。強いて言えばキレイになった」 「えっ!?」 なにを言い出すかと思えば…。 「いや、元々キレイな作りしてんなーとは思ってたけど、更に華やいだってゆーか」 「なんだよそれ、お前〜。公衆の面前でコクってんじゃねーよ」 「なっ…そんなんじゃないって」 自分で言っておいて、突っ込まれた途端に首まで真っ赤になったそいつに更に容赦ないひやかしの言葉が向けられる。 こんなことで告白されたとは思わないが、こんなことすら言われたことはなかった。…ひとりを除いては。 もちろんそれは俺が今までそんなことを言われたくないが為にガードしてきたからなのだが、今日、こんなにあっさりと他人に「キレイ」なんて言わせてしまったということは、やはり俺がこの友人たちの輪の中でいつの間にか気を抜いていたということなのだろう。 「でも確かにコンディション良さそうだよな」 「実はコイビトでも出来たんじゃないのか?」 「…まさか。そんな暇ないよ」 なにを突然…。 「そうかぁ? じゃあ好きな人ができたとか」 「―――だからそんな暇ないって」 どうしてそういう流れになるんだよ。 俺のどこがそんなふうに見えるのかさっぱりわからない。 でも何故だか顔が火照る。鼓動が早くなる。こういう話題は苦手だ。 食事と一緒に持ってきた、既にぬるくなった麦茶をゴクリと飲んで一息つく。 どうやって話題を逸らそうかと逡巡しているうちにポンと肩を叩かれドキッとした。 振り返るとそこには鬼の風紀委員長、赤池章三が立っていた。 人に聞かれたくないという赤池に付き合って学生ホールに行ってみたが、そこは食事を終えた生徒達の溜まり場と化していてとてもゆっくりと話せる状況ではなかった。 仕方なく俺たちは生徒会室を目指して第一校舎に向かった。 どうせ気になることがあったから一度寄ってから帰ろうと思っていたのだ。 それに生徒会室にいれば真行寺が立ち寄るかもしれないというほのかな期待もあった。 ……期待。期待、ね。自分の思考に思わずクスッと笑いが漏れる。 「楽しそうだな、三洲」 「別に」 俺はまた無意識に、何度も人並みを振り返っていた。 生徒会室は無人だった。現役員はほとんどが三年生。受験勉強が忙しい時期にわざわざ夏休みにまで顔を出したくないのが本音だろう。そう、みんな自分が大切なのだ。 俺と赤池は作業用に置かれた机に向かい合って座った。 休み中に起こった祠堂の生徒同士の傷害未遂事件。幸い補導まではいかなくて済んだらしいが、その片割れが次期生徒会長の立候補者だということだった。 どんなルートでその話が赤池の耳に入ったのかは知らないが、放っておいてそんな奴に生徒会長になられては堪らない。 「わかった。ありがとう。なにか手を打つことにするよ」 「ああ、でも何をしでかすかわからない奴だから気を付けろよ」 「わかってる」 ちょうど赤池の話が一区切り付いたとき、大路を始め役員達がぞろぞろと生徒会室に入って来た。 「あれ、三洲、いたんだ」 「ああ。どうしたんだ? みんなそろって」 「あーあ。なんだよ〜。せっかく…」 みんなで顔を見合せて言葉を濁す様子を怪訝に思って尋ねてみる。 「せっかく、なんだよ」 少しだけ語気が強くなったかもしれない。慌てた様子で大路が話し出した。 「いや、ほら、今度の文化祭の予算のことで揉めてる件があっただろ。その話をしててな、たまには三洲の手を煩わせずに俺たちだけで解決して新学期になったら三洲を脅かしてやろうと、そういう魂胆だったんだけどな」 口の端だけ上げてニヤリと笑った表情はまるでいたずらを咎められた子供のようで、俺の口元も思わず緩んだ。 「なんだそれ。俺はのけ者か?」 なんて、本気で思ってはいないしそれを寂しくも思わない。むしろみんながそこまで考えていてくれるのが嬉しかった。 「違うよ。いつも三洲ひとりに頼りすぎだよなって話してたんだ」 「バレたからには俺も仲間に入れてもらうぞ」 「ああ、もちろん。やっぱり三洲がいたほうが話が早いしな」 話がまとまったところで赤池が立ち上がる。 「頼もしい仲間だな、三洲。今の件もひとりで抱え込まないでみんなで相談しろよ」 「ああ、そうするよ。今期の生徒会は優秀なのが揃ってる」 心から信頼できる仲間を得たことを今更ながら実感し、初めてそれを誇りに思った。 みんな自分のことが最優先なのだろうと思っていた。 でも実際にはこうして俺のいないところでもちゃんといろんなことを考えてくれている。おまけに俺の心配までして…。 他人に寄りかかることの出来ない俺はいつも無意識になんでも自分だけの力で解決しようとしてきた。他人を見下しているつもりはなかったが、自分ひとりでなんとかしようなんて考えは俺のエゴだったんだ。 自分のことが最優先だったのは、実は俺なのかもしれないな。 「じゃあ僕はこれで」 赤池が出て行った扉が閉まったかと思うと、またすぐに大きな音を立ててガラッと開いた。忘れ物でもしたのかと振り返ると大きな図体がスルリと入って来る。 「こんにちは〜!! アラタさん! やっぱりいた」 ドキン、と心臓が高鳴った。今日は会えないものと思っていたのに今頃現れるとは予想外だ。 「おいおい、夏休みまで邪魔しに来たのか?」 大路が苦笑しながら言う。 「すみません、大路先輩…って、なんか取り込み中っぽいっすね」 生徒会室の中をグルリと見回して、大方の役員が揃っているのを確認した真行寺の顔がヘラッとした作り笑いに変わる。一瞬にして自分が場違いなことを悟ったのだろう。 「たいていいつも生徒会室は取り込み中だけどな」 平静を装って、敢えて冷めた声色を作ってみる。 それにしてもなんて間が悪い。これから本格的に選挙のことや文化祭の話を煮詰めようというのに。長引くことになるだろう。たぶん一時間やそこらでは終わらない。 「まさか真行寺、三洲と一緒に帰ろうなんてずうずうしいこと考えてるわけじゃないよな」 他の役員にもダメ押しされ、真行寺はジリジリと後ずさる。 「あ、いや、へへへ…。お忙しそうなんで俺、帰るッス」 「当たり前だ。そもそもここはお前が出入りするところじゃない」 真行寺は端から一緒に帰ることなど期待していなかったのか、ピシャリと言い放った俺の言葉に憮然とすることもなくニッコリと笑顔を見せた。 「お邪魔しました〜。じゃあアラタさん、また新学期に」 「はいはい。またな」 口先だけで言葉を返し追い払うように手をヒラヒラとさせた。 嵐のように現れて瞬く間に去って行った真行寺。 また新学期に、か。それまであと二週間もの間、顔を見ることもないのだろうか。そう思うと胸の奥がズキッと痛んだ。たった今自分で追い返しておきながら、気付けば追いかけたい衝動と共に真行寺が出て行った扉を見つめていた。 「どうした、三洲?」 「いや、なんでもないよ。さて、じゃあまずは俺から報告事項がある」 そうして"頼もしい仲間達"との会合は三時間にも及んだ。夕方を知らせる海からの風が開け放った窓から心地よく吹き込んでくる。 「さあ、じゃあ帰るとするか」 「これで新学期に慌てずに済むな」 「でもどうせまた新たな問題が出てくるんだぜー」 口々に言いながら戸締りをし、校舎をあとにする。 なにもせず家路に着いていればもう実家にたどり着いている時間だ。真行寺ももう家に着いただろうか。 きっと俺と一緒に帰りたくて生徒会室に立ち寄った真行寺。わかっていたのに俺はそっけない態度しかとれなくて。 あのままひとりで帰ったのだろうか。いや、友達の多いあいつのことだからきっと誰かと一緒になっただろう。…それでいい。ひとりで帰るには、東京は少し遠いから。 「悪い、忘れ物を思い出した。先に帰ってくれよ」 「え、でも三洲、もうバス来るぞ。次は一時間もあとじゃないか」 「ああ、でも大事なものだから」 嘘を付いた。友人達といるのが煩わしいわけではなかった。でも唐突に襲ってきたひとりになりたいという衝動。 有無を言わさぬ笑顔で仲間達と別れ、俺は生徒会室へと戻った。 もう校内に残っている生徒はほとんどいないようだった。ひとりでもう一度書類の整理をしたあと、次のバスまでの時間潰しに家から持ってきた受験用のテキストを開いた。 でもテキストに書かれた文字は頭の中を素通りするばかりで。 一度集中してしまえばたいていどんな環境でも夢中になれるはずなのに。 ふと思い立ってバッグの中から携帯を取り出した。家に電話しておかないと帰りが遅いのを心配されそうだ。 母との通話を終え、携帯をバッグに戻そうとして一瞬だけ躊躇う。 登録されたメモリーはふたつだけ。今かけたのとは別の、もうひとつのメモリーを呼び出してひとつだけボタンを押せば繋がる電話。 もしそれを実行すればあいつは飛び上がらんばかりに喜ぶだろうけど。 あいにく用もないのに電話をかけるような趣味はない。 知れず小さく零れた溜息と共に電源を落とした。 少し早目に着いたバス停には人影もなく、俺はベンチに腰を下ろした。 夕風が心地よく頬を掠め、見上げた空には沈みかけた太陽を反射してオレンジに輝く雲が切れ切れに浮かんでいた。 バスの中ではただぼんやりと流れる景色を眺めた。こんなふうになにも考えずに過ごす時間なんて、本当に久しぶりの気がする。 いつもなにかに追われるように過ごしてきた。生徒会長という役職についてからは余計に。 考えなければいけないことはいくらでもあった。学校のこと、受験のこと、将来のこと。 考えなければいけないという強迫観念があったのかもしれない。いつのまにか、なにかしていないと落ち着かない性分になっていたのだ。それが俺の存在価値だとでもいうように。 だけど、違った。ときには立ち止まって、ゆっくりと辺りを見回すことも必要なのだ。そして、自分を見つめ直す時間も。 こんなこと、きっとあいつがいなければ気付かなかった。一緒に伊豆に行ったりしなければ、俺はずっと走り続けていただろう。例えばそれが間違った道だとしても。 反論されれば怒るけど。生意気だとか、ふざけるなとか、きっと素直にそれに従うことはできないけれど。 でも、それでもへこたれず、きちんと道を示してくれる存在がある。 …感謝しているんだ、本当は。 結局ぼんやりとした頭の中を巡るのはあいつのことばかりで。いや、たぶんずいぶん前からその存在が俺の心の中を占める割合は大きかったのだ。でも俺はずっと気付かないふりをしていただけ。 もう認めるしかないのかな…。そう思うとカッと胸が熱くなった。 本当は、今すぐにアイタイ―――。 ホームへの階段を昇り切ったところで、ベンチに座る人影に気付いた。 息を飲んで思わず立ち止まる。 息苦しくなって胸元でぎゅっと拳を握りしめた。 一瞬だけ、時が止まった気がした。 長身の背を丸め、腕組みをして俯いていた真行寺の手からマンガ雑誌がバサリと落ちる。 その音で我に返り、俺はベンチへと向かった。 …眠ってる。 雑誌を拾い上げて目の前に立っても起きる気配はない。 ―――いったい何時間ここで待ってたんだよ…。 このまま放っておいたらいつまででも寝ていそうな真行寺の頭に分厚い雑誌の背をコツン落とした。 「イッテ…あ、アラタさん!」 真行寺は一瞬だけ顔をしかめ、痛い頭を摩りながらすぐにはにかんだような笑顔を浮かべた。 「…なにしてるんだよ」 「ちょっと待ってたら一緒に帰れるかなーなんて…」 「お前のちょっとは何時間なんだよ」 もう学校で別れてから優に五時間は経っている。 「や、あの、ちょっと待とうと思ったら寝ちゃったみたいで…。ゴメンナサイ」 「別に…謝ることじゃないだろ」 「へへへ…」 照れ笑いをした真行寺を見て俺の目元も綻ぶのがわかった。だけど、 「もし俺が誰かと一緒だったらどうするつもりだったんだ?」 「あー。そんなことまで考えてなかった」 うーん、と大きく伸びをして「俺ってばかっすねー」なんて言いながらごまかすように視線を逸らす。 ―――嘘だな。きっとこいつのことだから、何気ないふうを装って友達を待っているふりでもしたんだろう。そして俺はそれに気付いても気付かぬふりでこいつを置き去りにした…。 それでも次に会うときにはなにもなかったかのように笑顔を見せて。 …俺は今まで、いったいどれだけの想いをこいつに飲み込ませてきたんだろう。 ―――ばかだよな。ホント、ばか。主人に忠実なだけのバカ犬をこんなにも愛おしく感じるなんて、ホントに…俺もばかだ。 ふいに熱いものがこみ上げて、慌てて背を向けた。 「行くぞ」 「あ、うん。ちょっと待ってよ」 背中に届く真行寺の慌てた声がいつになく心地よかった。 ちょうどホームに入って来た電車に乗り込み、四人掛けのボックスに肩を並べて座った。 「アラタさん、着くまで勉強するんでしょ? 俺また話しかけるの我慢するっすよ」 「いいよ別に」 「え、いいの?」 「それよりほら、その雑誌よこせ」 「ああ、チャンプ? 今週号まだ読んでないの?」 今週号もなにも…休みに入ってから存在すら忘れていた。 渡された雑誌をパラパラと捲ってみるが、さすがに三週間も飛ばしていたらどの話の流れも皆目検討がつかない。 「おい、ちょっとかいつまんでストーリーを説明しろ」 「はい? どこから?」 「三週分」 「三週分…って、なんだアラタさん、休み入ってから全然読んでないんじゃん」 「まあな」 「勉強忙しいもんね、アラタさん。で、どの話が知りたいんすか?」 「全部」 「全部!? …って、いいけど、これ全部を三週分話してたら東京着いちゃうっすよ」 「いいじゃないか、それでも。今日は話し放題だぞ、真行寺。伊豆のときとは大違いだ」 「そりゃそうっすけど…。じゃあ全部話すからその代わりコーヒーおごってくださいね」 「なんでだよ」 「だって喉乾くもん。伊豆のときだって俺のコーヒー取り上げたあげく一滴も残さないで…」 「まだ根に持ってたのか。しつこい奴だな」 「そうっすよ。俺しつこいもん。だからどんなに足蹴にされようと付いてけるんじゃん。あー、でもこれってしつこいって言うよりけなげってやつ?」 「ばかか、お前は」 言った途端ぷぅっと膨れた頬に軽くパンチを入れた。 「あ、ひでぇー」 大して痛くもないだろうに大げさに頬をさする仕草を横目で見ながら「あとで買ってやるよ」と言うと、パッと瞳が輝いた。 本当はテキストに目を通しながら帰るつもりだったけど。 気付いたから。 気付かされたから。 余裕をなくしてる自分に。 それと大切なことにも。 家族とか、親戚とか、友達とか。 今しかできないのは受験勉強だけじゃない。 こうしてお前と過ごす時間も、俺にとっては…。 だから、認めてもいいんだよな? まだ言葉には出来ないけど。 うまく伝えられるかわからないけど。 お前のこと、好きだって。 少しずつ、たいせつなことに気付き始めた、17歳の夏―――。 |