ジムノペディ

By ネモ



「三洲?!」
すれ違いざまに呼びかけられて、三洲は手に持ったカリキュラム表から顔を上げた。
「矢倉…」
つい、この間まで、山奥の学校でしょっちゅう顔を合わせていた友人がそこにいた。
「驚いたなあ、三洲もここの講習受けてんだ?」
都内にある大手予備校。
二月に入ってからの、受験直前の講習を受けるやつは、そうはいない。
よほど、いいところを狙っているのでない限り。
「いやあ、三洲だったら驚くことはないか。俺のほうが驚かれてんじゃないか?もしかして」
そう言って、あの、ひとを魅了するとびきりの笑顔を見せた。
「なに言ってんだ。相変わらずだな、矢倉」
三洲は苦笑した。
大人びた渋いルックスと男女を問わずの派手な噂から、遊び人と見られがちだが、矢倉の成績が悪くないことを三洲は知っていた。多分、本気を出して勉強すれば、俺でもかなわないかも知れない。それくらい、出来るやつだ、矢倉は。三洲は、そう思っていた。
「どのクラス受けてんだ?」
三洲のカリキュラムを横から覗き込みながら、聞いてくる。
「ああ、これと…これ」
指で指し示すと
「へえー、文一かあ。さすが三洲だな」
「何がさすがなんだよ。矢倉は?」
指差したのを見て、矢倉の言葉をそっくりお返ししてやる。
「さすがだな、矢倉」
自分と同じ国立トップの、理三クラス。
なまじの学力で入れるところではない。友人たちの前では見せなかったが、おそらく夏以降、猛烈に勉強してきたんだろう。予備校に通えない、人里離れた全寮制の学校では、自力で何とかするしかないが、それには強い克己心がいる。なにせ、同室者がいる以上、部屋の中ですら一人にはなれないのだから。
おまけに
「階段長をやりながら、よく勉強するヒマがあったな」
そう言うと
「三洲こそ。生徒会長なんて激務をこなしながら、よくやったよ。もしかして、毎日生徒会室に通っていたのは、あれは、勉強してたのか?」
からかうように笑った。
そして
「とにかく、今日はもう授業はないんだろう?俺もだ。どこかで飯でも食わないか?」
そう言って、三洲を誘った。


建物の外に出ると、まだ、昼前だというのに空はどんよりと曇り、低く垂れ込めた雲で薄暗かった。
「雪でも降るかな?これは」
矢倉が呟く。
裸の木々が、痩せた指のような枝を伸ばす舗道を歩きながら、三洲は、寒そうに肩を震わせた。
「これでも巻いてろよ」
いきなり、自分の巻いていたマフラーをほどき、三洲の首に回した。
「あ…すまない」
断るヒマさえ与えない、矢倉の早ワザだった。
矢倉は、やさしい。
いつも。
たぶん、あいつと同じくらい……。


暖かそうなカフェに入って、その店自慢のパニーニとコーヒーを注文して窓際の席に座った。
昼どきではあるが、大きな大学の裏手にあるそのカフェには勤め人の姿は少なく、それほど混んではなかった。
「三洲は、合格したら家から通うのか?」
大きく口を開けてパニーニを齧りながら、そんなことを聞いてくる。
「いや、大学の近くにマンションを借りるつもりだが…矢倉は?」
家から通おうと思えば通えない距離ではないが、大学の近くに住むほうが何かと都合がいいだろう。
それに、祠堂の三年間で、たとえ親ではあっても誰かと一緒に暮らすということにうんざりしていた。
ひとりに、なりたかった。
「俺も、部屋を借りて住むよ。…大学の近く、というわけにはいかないけど」
ハッキリしない矢倉の言い方に、ちょっと眉を寄せると
「八津と一緒に住むんだ」
照れたように笑って、答えた。
ああ、そうか。
八津の志望校は知らないが、多分都内の大学だろう。互いが通うのにちょうどいい場所に住むつもりなんだろう。
矢倉は、八津と別れていた間もずっと、八津を見続けていた。
誰よりも、何よりも、愛おしいものを見る眼差しで。
おそらく、そのときから心を定めていたんだろう。
八津を、愛しつづける。
八津と、ともに生きていくと。

そうか…
三洲は、小さなため息を洩らしていることに、自分では気付いていなかった。


「そうか…よかったな、矢倉」
八津と一緒に住む。それを聞いたとき、三洲はそう言って微笑んだ。
三洲…気付いてないのか?
そんな、ため息をついて。
長い睫を伏せるように、そんな、淋しそうに微笑んで…
自分が、今、どんな顔をしているのか、気付いてないのか。
装うことに長けた三洲。三年間、ついに三洲は、完璧な優等生にして生徒会長を演じきった。
学校のなかで、皆の前で、こんな顔を見せることなど、ついぞ考えられないことだった。
おそらく、あいつだって見たことないんじゃないか?
三洲の、こんな顔…。
装うことをやめた三洲は、なんて……
矢倉は思い出していた。
一度だけ、三洲の、こんな顔を見たことがあった、そのときのことを。



あれは、いつだったろう?
音楽鑑賞会の…前あたりだったか。
土曜日の夕方、テレビ室で、八津と並んで映画を観ていた。
古いフランス映画だった。精神を病んだ男が一人、誰にも理解されない心を抱えたまま、パリの街路を彷徨っていた。
懐かしい友人たち、昔、付き合っていた女性……誰も、彼を分かろうとはしなかった。彼も、それが当然のように思っていた。世界も、人も、誰も彼を愛してくれない。そして彼も、誰も愛そうとしない、そんな映画だった。
なんで、そんな映画を観ようと思ったのだろう?
あの頃、俺は、八津と再び付き合うことが出来た幸せのただ中にいた筈だった。
だからだろうか?
俺も、八津も、一人ではとても観る気にはなれないだろうそんな映画を観ようと思ったのは。
テレビ室には、俺たちのほかは誰もいなかった。
最初は、それでも何人かが観ていたのだが、しばらくすると、感動的なシーンも興奮するようなアクションも何もない展開に飽きたのか、途中で、一人、二人と抜けていき、残ったのは俺たちだけになっていたのだ。
俺たちは、映画の世界にのめり込んでいた。
だから、気が付かなかった。誰かが、そっと扉を開けて後ろにひっそりと立って観ていたのを。
ふと、気が付いて後ろを振り返ったとき、そいつと眼が合った。
三洲だった。
三洲は、俺の眼を見て、ちょっと微笑んだ。
映画のなかの男のような、淋しい笑顔だった。
俺はゆっくりと眼を逸らし、頭を前に戻した。そして、映画が終わるまで、二度と振り向かなかった。
映画は、男が自殺して終った。
振り返ると、もう、三洲はいなかった。



「三洲は…真行寺と一緒に暮さないのか?あいつが卒業したら」
矢倉に聞かれて、三洲はちょっと戸惑った。
これが矢倉でなければ、自分が恋人と暮らす幸せを、他人にも味合わせたいというお節介か、と皮肉な気持ちで聞いただろう。
俺と真行寺の関係を、矢倉は誰よりもよく知っている。
おそらく、俺の気持ちも…
「そうだな…それもいいかもな」
だから、俺は、平気で嘘がつける。嘘と分かる嘘が。
矢倉は、それ以上、何も言わなかった。


店の外に出ると、白いものがチラチラと舞い始めていた。
「やっぱり雪になったな」
空を見上げて三洲が言う。
駅に向かって歩いている間も、雪はどんどん降りつづいていった。
激しさを増す雪に、視界が悪くなる。
「これは、積もるな」
「ああ」
矢倉の言葉に、三洲が短く答える。
何か考え込んでいる様子の三洲に
「どうした?三洲」
声をかけた。
「済まなかったな」
「え?」
思いがけない三洲の言葉に、思わず立ち止まると
「いや…さっき嘘をついて…」
そんなことを言った。
三洲らしくもない…
「謝るようなことじゃないだろ?」
そう言うと
「矢倉には、嘘を言いたくなかったんだが…」
三洲は、眼を伏せた。
矢倉は、何も言わず、三洲の髪に降り積もった雪を払った。
やさしくしてやりたかった…どうしても。
何も、できないから…。
三洲は、驚いたように矢倉を見つめ、そしてうっすらと微笑んだ。
「やさしいな、矢倉…」
儚く消える、淡い雪のような微笑だった。
ひとりでいた時の、八津を思い出させるような笑みだった。


駅に着いた。
「次に会うのは、卒業式だな」
「ああ、たぶん」
「俺は、このまま帰るけど、三洲は?」
「俺は…ちょっと本屋に寄って参考書を見てからにするよ」
「じゃあな、試験、頑張れよ」
「矢倉もな」
そう言って、駅の外に出ていった。
いくらも行かないうちに、吹雪のような雪のなかに三洲の白いコートが紛れて、雪と一緒に溶けていった。
眼を凝らさなければ、もう、その姿は見えない。
「三洲ー!!」
追いかけて行って、三洲の腕を掴んだ。
「矢倉!?」
驚いて、三洲が振り向く。
「行こう」
「どこへ?」
どこに行くかなんて、考えてなかった。
ただ、思っていた。
三洲を、ひとりにしてはいけない。
ひとりに、したくない。
あの、映画の男のように…
矢倉は、三洲の肩を抱いて、歩き出した。


「祠堂の三年間…俺は、ずっと苦しかったよ…あんなに苦しくて、あんなに幸せだったことは、たぶん、もう、
二度とないんだろうな…」
矢倉に肩を抱かれたまま、三洲は、そう呟くように言った。
もと来た道を、行く当てもなく歩いていた。
雪に遮られて、ほとんど前は見えない。
「俺も、そうだった」
「知ってる…でも、矢倉は、もう…」
もう、八津がいる。
三洲の言葉をかき消すように、肩を抱く手に力を込めた。



八津と別れてからも、矢倉は八津を見続けていた。
愛おしいものを見守るような眼差しで、八津を見ていた。
その、同じ視線が、時折、自分にも向けられていることに気付いたのは、二年になってからだった。
何故、そんな眼で俺を見るんだろう?
分からなかった。
だから、その年の夏、矢倉に誘われたときに頷いた。
一度きりの関係だった。
後には何も残さない。その場だけの、身体だけの関係のつもりだった。
俺も。
矢倉も。
なのに……



「おい!身体が冷たくなってる。風邪引くぞ、このままじゃ…」
矢倉の切迫した声に、ふと、我にかえった。
「どこかに入ろう」
「でも…」
見渡せば、いつのまにかビル街に来ていた。
矢倉は、何も言わず、三洲の手を引っ張って手近のホテルに飛び込んだ。
小さなビジネスホテル。
ロビーに人影は、ほとんどない。
三洲が、コートの雪を払っている間に、矢倉はフロントで受付を済ませ、ルームキーを受け取っていた。
華美ではないが、清潔に整えられたツインルーム。
部屋に入るなり、矢倉はバスルームに向い、湯を出した。
「とにかく、風呂で身体を温めたほうがいいな」
「…その前に、家に電話しておくよ」
部屋を出ようとして、矢倉に呼び止められた。
「おい、電話ならここからでも掛けられるぞ。それに、携帯を持ってないんだったら貸そうか?」
「いや、いい」
そう言って、廊下に出た。
矢倉のいるところでは、話せなかった。
ロビーで待っている間に考えたことだった。
三洲は、ロビーまで降りて、フロントに置いてあったパンフレットを手に取り、電話ボックスに入っていった。


バスルームから三洲が出てきた。
白いガウンからのぞく肌が、薄い桃色に上気している。
「温まったみたいだな」
「ああ、助かったよ。あ、宿泊代は半分払うよ、もちろん」
「気にするな。オヤジのカードを持ち歩いているから大丈夫だよ」
「こんなときのためにか?」
からかうような三洲の言葉に
「もちろん!吹雪になって、都心で遭難しそうになったときのためにさ」
そう返した。
「矢倉も、早く入れよ」
「そうするか」
三洲からは、先ほどまでの、雪に溶けてしまいそうな、儚い風情が消えていた。
いつもの三洲に、戻っていた。
矢倉は、三洲の思惑など何も考えることなく、バスルームに入っていった。


ベッドに腰掛け、二人して窓の外を眺めた。
激しく吹きつける雪で、真っ白だった。
「とにかく、明日はここから出掛けるか?授業に。いったん戻ってから出直すよりはいいだろ」
「朝帰りどころか、これじゃあ居続けみたいだな」
そう言って三洲は、クスッと笑った。
「いっそのこと、講習の間中、ここに居てもいいな」
ほんとうは、講習にも行きたくなかった。
ここに閉じ込められて、どこにも行けなくなればいいと思っていた。
八津も、
真行寺もいない、
ここで、
ふたりだけで居たいと……頭の片隅で、そう、願っていた。
矢倉の思いが届いたかのように、三洲は身体を摺り寄せてきた。


あのときと同じように三洲は、積極的だった。
そんなつもりではなかったのに…頭のなかをふとよぎる思いを、身体が打ち消した。
口腔に放ったそれを、三洲は、音をたてて飲み下す。わざと。
顎を心持ちあげて、それが下っていく白い喉のラインを見せつけるようにして。
そして、唇の端から垂れたものを手の甲で拭いながら、紅く濡れた舌先をちらつかせ、目元に媚を含ませながらこちらを見つめている。
あからさまな誘う仕草に、一度達したものがまた、張りを戻してきた。
三洲の手が、矢倉の胸を触れるか触れないかくらいのタッチで撫でていき、そうして今さっき達したものの裏にあるものを両手で包み込み、皮を伸ばしながらやわやわと揉みしだいた。
「ふふっ、マッサージ」
身体中の力が抜けていくような、なんとも言えない気持ちよさだった。
「どこで覚えた…こんなこと」
あのときから一年以上たっている。
三洲に、こんなことを教えるような男の顔を何人か思い浮かべた。
「野沢」
三洲は、素っ気無く答えた。
何も隠すことなどないかのように。
「矢倉には、もう、嘘をつかないと決めたんだ」
そして、平然と嘘をつく。
いつもの三洲だ。
この三年間、仮面を被りつづけ、嘘と真実をない交ぜにした言葉と身体で自分のこころをガードしてきた。
矢倉のよく知る三洲の姿が、ここにあった。
気持ちが、急速に冷えていく。
三洲とはもう、こころの通わないセックスはしたくない。
そんなセックスで自分をごまかすような、そんなことは俺はもう、したくないんだ。
「俺は八津じゃないぜ?」
矢倉の、口に出さない叫びが聞こえたかのように、三洲は言った。
唇の端を、皮肉っぽく歪ませながら。
「三洲、俺はこんなことはしたくない」
はっきり言った。
三洲は、一瞬泣きそうな顔をして、そうして今度はきつく睨んできた。
「俺は八津じゃないと言っただろ!?八津を抱くみたいに俺を抱きたいのか?はっ!お断りだね」
剥き出しの、ひりついたこころがぶつけられて来る。
八津を抱くように抱きたいわけじゃない。
ただ、こころを通わせたかった。
こころが通うように、抱き合いたかった。
八津としているように…。
それが、三洲をどんなに傷付けることか、矢倉はようやく思い至った。
「…済まなかった、三洲…」
三洲はまだ、怒りの収まらない眼で矢倉を睨んでいたが、フイと横を向くと言った。
「…抱いてくれないか、寒いんだ…」
矢倉は、三洲を抱き寄せると、そっと唇付けた。


いつの間にか、窓の外は闇の色に変わっていたが、雪は、相変わらずその闇のなかを舞っている。
三洲をその腕に抱きながら、充足のあとの心地よい眠りに落ちようとしたときに、それは鳴った。
部屋に備え付けられた電話の音。
「何だ?」
不審そうな声を出すと、三洲が眼を閉じたまま言った。
「出てくれよ…」
ベッドから降りて、壁に掛かった電話を取った。
「フロントです。お電話が入っております。外線にお繋ぎいたします」
しばらくして、外に繋がった音がした。
誰だ?
家からか?
「もしもし」
反応がない。
「もしもし!」
もう一度、声を張り上げた。
そうして、耳を澄ます。
しばらくして、向こうの声が聞こえた。
信じられない、その、声が。
「……アラタさん…?」
真行寺だった。


矢倉が、信じられないものを見るように俺を見ている。
驚愕と不信に眼を見開いて。
俺が言った時間通りだ、真行寺…。なんて忠実な犬なんだ、お前は。
三洲は、ベッドから降りると、床に脱ぎ捨てたガウンを拾って身にまとい、ゆっくりと矢倉に近づいた。
矢倉の手から電話を取り上げ、耳に寄せる。
「俺だ…」
アラタさんっ!!
悲鳴のような真行寺の声が聞こえる。
アラタさん!…今の…矢倉せんぱ…い!?
「…ああ、そうだ…矢倉だ…」
…なんで…なんでなの?アラタさん…
俺は、電話を切った。
もう、十分だった。
目的は果たした。


「三洲っ!!」
電話を置いた三洲に、怒鳴った。
矢倉には、信じられなかった。
俺を裏切り、真行寺を傷付け、いったい何をしようとしているのか、三洲は…!?
三洲は、ベッドに腰掛けると、何の感情も籠らない声で言った。
「寝ないのか?あんな興醒めな電話、忘れろよ…それとも、もう一度…やる?」
何も言わず、いきなり三洲の頬を叩いた。
嘘をつくことしか知らないその口を黙らせたかった。
三洲は、叩かれた勢いでベッドに倒れ伏し、そのまま動こうとはしなかった。
やがて、肩が、小刻みに震え出す。
泣いているのか…三洲?
シーツの波に埋もれている顔を見ようと近づくと、三洲は、ゆっくりと身体を起こした。
その頬は叩かれて赤くなっていたが、乾いていた。
虚ろな人形のような瞳にも、涙の痕はなかった。
「泣けよ…三洲」
自分でも思いもかけない言葉が口から出てきた。
「辛いときには、自分を傷付けるんじゃなくて、泣けばいいんだよ…」
ああ、そうだ。
三洲は、こういうやつだった。
俺を裏切り、真行寺を傷付け……自分で自分のこころを切り裂くやつだった…。
「……言えないんだ」
三洲が、抑揚のない声でポツリと呟いた。
「何を?」
「何度も、言おうと思ったんだ…もう、言わなきゃって…今度こそ、今度こそって…」
「三洲…?」
「言えないんだ――」
三洲は、そう言うと、数学の難問でも解いているかのように、両手で額を押さえた。
「卒業したら、もう、会わないって…言えないんだ、どうしても…」
矢倉はやっと、三洲が何を言おうとしているのか分かった。
真行寺と別れようとして、でも、言い出せない…だからか?
だから、あんなことをして…真行寺に嫌われようと…
どうしても、自分から別れることができないから…。
何故だ?
何故、そんな思いまでして、真行寺と別れなければいけない?
「…いいじゃないか…別れなくても。好きなんだろう?真行寺のことが…」
自分から別れるなんてこと、どうあっても出来ないくらい、それくらい愛しているんだろう…。
三洲は、手で額を押さえたまま、子供のように首を横に振った。
「好きじゃない…」
「三洲!!」
何故、嘘をつく?
こんなになっても…なお!!
「好きだって…言ったら…どうなるんだ…?幸せな恋人同士になるのか?お前と八津みたいに」
三洲は、額から手をはずして、俺を見上げた。
ぎらぎらと熱を帯びたその瞳…憎しみ、としかいいようのない色が、そこに浮かんでいた。
矢倉は、一瞬たじろぎそうになり、踏みとどまった。
「そうだ。俺と…八津のように、『幸せな恋人同士』になって、何が悪い?!」
「ハッ!八津は知ってるのか?お前がここで何をしてるのか…何だったら電話してやろうか?俺が」
その声は、いっそ狂気と言っていいほどのもの狂おしさを帯びていた。
「…何をしてるんだ?矢倉…ここで…?」
一転して、やさしくささやくように言う。
矢倉は、何も言えないまま、ただ、立ち尽くしていた。

誰にでも物腰優しく、柔らかい笑みで接しながら、こころのガードを固くして、誰にも立ち入らせない…
そんな三洲の姿に、別れたあとの八津が重なった。
だから、気になった。
三洲を、見ないではいられなかった。
それだけだった……



深夜になって、雪はすっかり上がったようだった。
すでにカーテンを閉めた窓の向こうから、シンとした夜の冷気だけが伝わってくる。
あれから三洲は、石のように押し黙ったまま、隣のベッドで矢倉に背を向けて寝ている。
何をしてるんだ?俺は…ここで。
答えはなかった。
三洲と、初めて寝たあの夏の日から、いや、三洲に八津を重ねて見ていたその前から…
答えは、なかった…。
シアワセナコイビトドウシ?
嘘つきは俺だ!
ずっと、八津を、三洲を、自分自身を欺いて……
それでも、俺は、八津と別れるなんてこと、とうてい考えられない。
三洲が、真行寺と別れられないように…。
その時――
「うぇっ…えっ…」
隣から、何かえずきを堪えているような声が聞こえ、矢倉は飛び起きた。
「三洲!どうした?」
三洲は、ベッドの上で背中を丸めて、口を押さえていた。
「どうした…吐きそうなのか?」
堪えるのに精一杯で、返事をする余裕はなさそうだった。
矢倉は、三洲を抱え上げてベッドから降ろし、バスルームに連れて行った。
苦しむ三洲の背中を撫でさすってやったが、胃液以外に吐くものは無さそうだった。
しばらくして落ち着いた三洲に、濡らしたタオルを固く絞って渡した。
「…ありがとう」
素直な声だった。


三洲を寝かせたその傍らで、髪を梳いてやった。
サラサラの絹糸のような髪を…
三洲は、薄っすらと眼を開いて、自分の髪を梳く矢倉の手を見つめていた。
三洲の身体の変調は、精神的なものから来ていることは間違いなかった。
あんなにこころを痛めつければ、からだだって耐えられなくなる。
「しんぎょうじが、すきなんだ」
子供のように、素直な、幼い声で三洲は言った。
ほんとうのことを。
「ずっと、ずっと、すきだった」
「あいつのことをかんがえると、ほかのことがかんがえられなくなるくらい、すきなんだ…」
「真行寺も、お前のことが好きだよ、三洲」
そう、言ってやると、いっそあどけないと言っていいくらいの顔でコクンと頷いた。
「わかってる」
「だったら、いいじゃないか、なあ?」
「いやなんだ」
「何が?」
「あいつのことばかりかんがえていると、おれがおれでなくなってしまう…」
「仕方ないじゃないか、好きなんだから。そうなるのは当然だよ」
「こわいよ…おれはあいつにしばられる…おれもあいつをしばる」
そう言って、いきなり矢倉の腕を掴んだ。
「俺が八津で、お前がこんなことをしていると知ったら、俺はお前を殺すよ?」
「三洲…」
「縛るのも、縛られるのも嫌じゃない、嫌じゃないどころか…幸せなんだ…これ以上の幸せがあるのかと思うくらい…身体も心も幸せで震えるくらい…だから恐いんだ」

愛することにも、愛されることにも、臆病な三洲。
これほどまでに真行寺を愛しているのに、あれほどまでに真行寺に愛されているのに、
なのに……

三洲は、愛することも、愛されることも知らないんだ。

愛する者の、手の温もりを何よりも欲しているくせに、それが与えられると、自分で剥ぎ取ってしまう。
そうして、裸のこころで立ち尽くす。

愛を知らない、臆病な子供なんだ
三洲は……。


………じゃあ、俺は、どうなんだ?
俺は、知っているのか?

知っている、つもり(はず)、なのに
愛されている、のに
愛している、はず、なのに


俺は、俺の腕に縋りつくこの手を、振り払うことができない……!





翌朝、窓から外を眺めると、眩しいほどの陽射しが溶けかかった雪に反射して、世界を銀色に輝かせていた。
昨夜、矢倉は、ほとんど眠ることが出来なかった。三洲もそうだった。
明け方になって、ようやくウトウトしたが、カーテンの隙間から入ってくる陽射しに、眼を閉じることを妨げられ、矢倉は眼を覚ましたのだった。
三洲は、それでも、まだ深い眠りのなかにいた。
時計を見ると、9時を回っていた。
「三洲、起きろ」
「う……ん…」
「チェックアウトだ、三洲!」
「……ん…」
起きるのを拒否するかのように、向こうに寝返りをうって、ふとんのなかに潜り込もうとする。
矢倉は、ベッドの端に腰掛け、三洲の薄い耳たぶを軽く抓みながら
「起きれないなら、今日も泊まるか?ここに」
そう、言ってみた。
それでもいいと、思っていた。

ふたりで、ずっと、いる。
ふたりで、ずっと、抱き合って
八津も、
真行寺もいない、
ここで、
ふたりだけで……

そうしたら……――



「起きろ!!三洲!」
矢倉は、抓んでいた耳たぶを引っ張って、耳元で怒鳴った。
「うぅ…」
しかめっ面をしながら、三洲が眼を覚ました。
「…どういう起し方だ?それは」
「こうでもしなきゃ、起きないだろう?」
「…ったく」
三洲は、頭を振りながら、身体を起こした。
まだ、ちゃんと眼が覚めてないのか、ぼんやりと矢倉の顔を見ている。
「早く支度しろ。チェックアウトが近いし、授業も始まるぞ」
「ああ…」
ベッドに腰掛けたまま動こうとしない三洲に近寄り、
「おはようのキス」
そう言って軽く唇付けた。
冗談のような本気のような矢倉のキスに、あたりまえのように三洲は応える。
恋人でもないのに。


一度だけ、好きだと言われた、三洲に。
一度だけ、好きだと言った、三洲を。
あの日、初めて身体を重ねたそのあとで。
嘘ではなかった。
本当でもなかった。
三洲が、本当に好きなのは、真行寺。
俺が、本当に好きなのは、八津。
それでも
嘘と本当の狭間に
こころが
あった……





チェックアウトを済ませて外に出ると、雪は、もう、かなりの部分が溶けていた。
ぬかるんだ舗道を、滑らないよう慎重に歩きながら、駅に向かっていた。
もう、授業に出る気はなかった。
だからといって、家に帰る気にもなれなかった。
駅に着いて、それからどうする?
「三洲」
「ん?」
「これから、どうする?」
「これからって…?」
「いや…」
何を聞こうとしたのか、何が聞きたかったのか、矢倉は、言葉にできなかった。
「真行寺のことか?」
矢倉は、思わず立ち止まって、三洲の顔をまじまじと見た。
思いもよらないことを三洲は言う。
いや、本当は、一番聞きたかったことかもしれない。

「あんなことくらいで、あいつは俺から離れたりしないさ」

そう言って三洲は、これ以上ないほど幸せそうに微笑んだ。
これまで見たことがないほど、綺麗な笑顔だった。



予備校の近くまで来て、矢倉は言った。
「やっぱり、俺は授業に出るよ。今ならまだ、間に合うからな。三洲は?」
「俺は家に戻る。今日はやっぱり休むことにするよ」
「じゃあ、今度こそ本当に卒業式で会おう」
「ああ、そうだな」
「じゃあな」
「じゃあ」
三洲は、駅に向かって歩いて行った。
矢倉は、もう、追いかけなかった。




「何だか、救いようのない映画だったな」
「矢倉は、こういうの嫌い?」
「いや、嫌いって言うんじゃないけど…ああ、バックにかかっていた音楽はよかったな。あの、ピアノ」
「ジムノペディ」
「え?」
「そういう曲なんだ。エリック・サティの」
「へえー、よく知ってるな、八津」
「有名な曲だよ。どこかで聞いたことがあるはずだよ、矢倉も」
「ああ、そう言えば…」
「それに、俺、サティ好きだから」
「あの映画は?」
「嫌いじゃないよ…でも…」
「でも?」
「いや…あ、ジムノぺディってね、ギリシア語をもとにサティが造った言葉なんだって」
「どういう意味なんだろう」
「裸の子供たち」
そういう意味だって。
なんだか合ってるよね
あの映画に。

そう言って八津は、ちょっと笑った。





fin


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dc