「うまくやれたら、今夜デートしてやるよ」
 それは、魔法のように不意に口をついた言葉で、だから自分でも内心驚いた。
 姫役の高林に嫉妬したわけじゃない。自分が姫をやりたいとはとても思えなかったし、それに高林にはちゃんと決まった相手がいる。
 ただ。ただ、目の前の王子の姿の真行寺を、そこにいるだけで周りの景色さえ霞ませてしまうほどの真行寺を、今夜だけは他の誰にも渡したくないと思った…。


+++ One and onry… +++
act 5


 先輩の家が経営するホテルのロビーで待ち合わせをした。
 時間よりも早く着いた俺よりも先に、先輩はロビーのカフェでコーヒーを飲んでいた。すっかり日焼けして、また一段と逞しくなったようだ。
「お待たせしました」
「おう、久しぶり」
 俺を見つけると、先輩は真っ白な歯を見せて笑った。
 その笑顔にドキンとする。屈託なく、人懐っこいその笑顔を向けられるたび、心をときめかせていた頃があった。
 もしもあの頃、この人に思いを打ち明けられていたら、きっと素直に頷いてしまっていただろう。本当の恋を知らなかったあの頃なら、あこがれも尊敬も恋も区別のつかぬまま、俺はこの人について行ったに違いない。
 それは胸を焦がすような想いではなかったけれど、でもきっと、誇らしげな気分で隣に収まっていた…。


 コーヒーをを飲みながらスペインでの出来事をおもしろおかしく話す相楽先輩に相槌を打ちつつ、ああ、この人はどこの世界でも変わらないのだな…と妙に冷静に分析する自分がいる。
 人間は生きていくうえで様々な人と出会い、互いに影響を与えながら成長していくものだ。環境に流されやすい人間なら、その過程で人生も大きく変わって行くのだろう。実際この世界で暮らしていて、そのキャラクターに違和感を覚える友人も少なくない。
 だけど自分の意思を強く持つ相楽先輩は、俺の知っている先輩とまるきり変わったところはないようだ。そういう意味では、見ていて何の違和感も覚えない崎や赤池もやはりきちんと確立された自我を持っているのだろう。そう、あの葉山も、俺に対する態度を除けば何も変わった様子はないのだ。
 ……俺は、どうなんだろう。真行寺がいないこの世界での俺は、どんなふうに生きてきたのだろう。
 流されまいとする一方で、それでも俺にとって真行寺の影響力がどれほど大きいかを、この夏に嫌というほど自覚させられた…。


「スペインの写真、見るか?」
 そんな思考に気を取られていた俺は相楽先輩に問い掛けられてハッとした。
「ええ、ぜひ」
 反射的に笑顔を作って答え、すぐにしまった、と思った。
「じゃあ、部屋へ案内するよ」
 やはりそういう展開になるのか。相楽先輩には悪いが、お茶だけ飲んで早々に抜け出すつもりで来たのに。
 だが今更断るのも憚られ、俺は伝票を持って立ち上がった先輩のあとを追った。


 ひとりで使うには多少広い室内に通され、二人掛けのソファを勧められた。
 先輩は作り付けのデスクに置かれたノートパソコンをソファの前のガラステーブルに置き直すと、当然のように俺の隣に腰かけた。
 相変わらずの楽しい話とともに液晶画面に映し出される美しい写真。ふたりで覗き込むうちにふと指先が触れ合った。
 ギクリとして引こうとした手を逆に強く握られて身動きができなくなる。気付けば間近に先輩の顔が迫っていた。
「三洲…」
 空いたほうの手が俺の頬にかかる。
 来たな、と思った。この部屋に来たときからこうなることは予想していた。予想していたのに安易について来てしまった責任は自分にある。今更言い逃れなんてできなかった。何よりも、先輩がそばにいると無条件に安心してしまう自分がいるのだ。
 もしもこのままもとの世界に戻れなかったら……。不安が胸をよぎる。

 ごめん、真行寺――。
 先輩の真剣な眼差しを受け止めきれずに目を伏せた。

 だが、覚悟を決めた俺の耳に届いたのは、
「なんて顔してんだよ…」
 戸惑うような声色の言葉だった。
「まだ、ダメか?」
 その言葉にハッとして目を開けると同時にきつく抱きしめられた。まるでその瞳の奥の哀しみを見られまいとするように。
「いいよ、三洲。お前がその気になるまで、俺は待つから」
 わずかに震える声と腕が、先輩の切なさを伝える。この想いに応えることが出来たらどんなに楽だろう。
 だけど。
 先輩の逞しい腕の中で、様々な感情が入り乱れる。
 気付けば俺は、先輩のシャツを握りしめたまま顔を上げることができなくなっていた。
「三洲…」
 優しい呼びかけとは裏腹に、俺の手は少々強引にシャツから引き剥がされた。
「今日は帰れよ」
「先輩…」
「急に呼び出したりして悪かったな」
 そう言って立ち上がった先輩は有無を言わさぬ歩調で部屋のドアへと向かった。
「ロビーまで送るよ。…車がないから祠堂まで送れなくてごめんな」


 言葉通りロビーまで見送りに来た先輩は、「またな」と言っていつものように笑っていたけれど、きっと傷付けてしまったんだろうと思う。
 こんな中途半端な態度のせいで…いや、中途半端なのは真行寺に対しても同じだ。
 いつも、いつも、痛いほどあいつの気持ちはわかっているのに俺が素直になれないばかりに傷付けて。
 傷付いた顔を見たい訳じゃなかった。本当はいつだって笑っていて欲しかった。
 俺は、あの眩しいくらいの笑顔が好きで…本当は、大好きで……。

 戻りたい…!

 ずっと思いつつも敢えて考えないようにしていた想いがドッと溢れ出した。
 どうすれば戻れる? こうなってしまったときと同じ状況を作れば戻れるのか?

 そっと一階の空き部屋のドアを押す。カーテンもなく、ただ剥き出しのベッドだけが横たわる部屋。この部屋で、何度も抱き合い、朝を迎えた。
 今夜はこの部屋で眠ってみよう。…ちゃんと眠れるとは到底思えないが、戻れる可能性があると思えることを試してみたかった。

 朝になったら隣に真行寺のマヌケな寝顔があって。
 容赦なく叩き起こしても中々目を覚まさない真行寺に愛想を尽かして俺はひとりでベッドを出るんだ。
 そして、俺が出て行く気配にようやく気付いたあいつが、まだ寝ぼけた声で言う。
「オハヨウ、アラタさん」

 そんな日常を思いながらベッドに横たわる。
 朝になったら。朝になったら何もかも元通りで…。



 目が覚めたのは陽が昇り始める頃だった。
 隣に真行寺は、いない。でも。…もしかしたら。
 こんな時間から寮の部屋を訪ねるわけにもいかない。俺は僅かな期待を胸に生徒会室へと向った。
 明け方の、ひっそりとしたその部屋で、去年の文化祭のアルバムを手に取る。
 ひとつ、大きく息を吸い込んでからゆっくりとページを捲った。



 「…真行寺……」



 学院の中のみならず、近隣の女子高生の話題をあれだけさらった、絵本から飛び出したようなビジュアルの王子。
 その姿は、そこにはなかった―――。

 本当に、ここには何もないんだ。
 真行寺の想いも、俺の想いも、ふたりの思い出も…。


 とめどなく、涙が零れ落ちた。


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