「リンリンね、パンダみたいな名前だな」
 誰が付けたのやら、センスのかけらもない単純なこの名前は、きっと極一部の人間しか知らないのだろう。
 限られた人間だけが共有する一種の秘密のような存在。それがなぜだか面白くない。

「最近めっきり、真行寺と仲が良いんだな」
 原因不明の苛立ち。こんなことを葉山に言ってしまうほどに自分を見失いかけていた。

「変なの、あんなに愛されてるのに不安なんだ」
 不安…? なんで俺が不安にならなきゃいけない?

 葉山にとっては理不尽であろう俺の言葉の数々に、葉山も珍しく強気な言葉を言い連ねた。でもいつしか心の中のモヤモヤも晴れて。
「参ったね、崎がつきあってるだけはある」
 そう言うと葉山は不思議そうな顔をしていたけど。

「散歩してくる」
 道場まで行ったところで、自分から声を掛けえる気もないくせに。でも、そうせずにはいられなかった。
 …その理由は、考えないようにした。


+++ One and onry… +++
act 4


 電話越しに相楽先輩の陽気な声が響く。
「あれから元気にしてたか?」
「はい、おかげさまで」
 あれからとはいつのことを指して言っているのかわからないが無難に受け答えする。
「でもこの時期は生徒会も忙しいだろう。あんまり無理するなよ」
「大丈夫ですよ」
「一度倒れた人間にそう言われてもなあ…」
 ああ、こちらの俺も倒れたのか。俺と違って真行寺のことで気持ちを乱されることなどなかったはずなのに、何をそんなに頑張っていたんだか。
「あの時はご迷惑をおかけしました。あれから気を付けてますから」
「迷惑なんて思っちゃいないけどな。むしろあれがきっかけでこういう付き合いができるようになったんだから、俺としては喜ばしいことだぞ」
「……」
 ――付き合い。やはり俺は相楽先輩と付き合っているのか。一体どこまでの付き合いなんだろう。中学生じゃあるまいし、映画を観て食事をするだけ、なんて付き合いな訳はないんだろうな…。
「どうした?」
 黙りこんだ俺に先輩が心配そうに聞く。
「あ、いえ。何でもないです」
「それでな、三洲。忙しいのはわかってるんだが、急に今週末帰国することになったんだ」
 『帰国』という言葉が出てくるからには先輩はやはりスペインにいるのだろうか。だとしたら、あれからまだ2ヶ月しか経っていないことを考えればそれほど深く付き合ってはいないのかもしれない。――そう信じたい。
「少しでいいから会えないか?」
 どことなく遠慮がちな先輩の口調。
「今週末、ですか?」
「ああ。無理にとは言わないよ。ただ、夏の間も一度しか帰れなくて、ゆっくり会う暇もなかっただろ? だから…」
 だから…会いたい。恋人同士なら当然お互いにそう思うだろう。
 ――でも、俺は。
 先輩を嫌いな訳じゃない。会いたくない訳じゃない。こんな状態でなければ余程のことがない限り誘いを断るようなことはしないだろう。
 いつも、頼りになる人。無条件に安心できる人。
 ふいにあの音楽会で倒れたときに支えてくれた逞しい腕を思い出した。疲れ果てた心には心地よくて、なんの躊躇いもなく身を預けてしまったときのことを。
「…わかりました。何時にどこがいいですか?」
「良かった…。断られたらどうしようかと思ったよ」
「断るなんて、そんな…」
 いつでも陽気な先輩と会えば、少しは気が晴れるだろうか……。


 先輩と会う予定を明日に控えて、やはり気持ちが落ち着かない。会っても話が噛み合わないことはわかっているのに。
 ふいに思い出されたあの腕の温かさに、後先考えずに約束してしまった。自分でも気付かぬうちに今の状況にかなり参っているらしい。今から断りを入れようにも、既に機中の人であろう先輩には連絡がつかないし、さすがに約束を反故にするのは躊躇われる。
 せめて葉山と…こんなとき、唯一俺と真行寺の関係をほぼ完璧に把握している葉山と、せめて普通に話すことができれば、少しは違うだろうに。こちらの世界の葉山はどこか他人行儀だ。
 今からでも遅くないだろうか。葉山と俺は、普通の友達になれるだろうか。たとえこの状況を打ち明けることができなくても、他愛のない会話でもできれば、それだけでも心が安らぐ気がした。
 生徒会室からの帰り道、俺は漏れ聞こえるバイオリンの音色を確認してから温室のドアを開けた。

「三洲くん! どうしたの? 珍しいね」
 なるべく音を立てないよう気遣ったはずなのに、葉山はかすかな物音に反応してバイオリンを奏でる手を止めた。驚いた声から察するに、「俺」がここに足を向けることはほとんどなかったのだろう。
「ああ、たまには葉山のバイオリンを聴いてみるのもいいかと思ってね」
「どうしたの? なにかあった?」
 俺の普段とは違う行動に何か感じるものがあるのだろう。葉山はさりげなく気遣うように、でも俺には気遣わせない絶妙なバランスのトーンでそう聞いてきた。きっとそう親しく付き合っている訳ではないのだろうに、そんな相手にでも自然に優しくできる葉山とはやっぱり友達でいたいと思う。
「なにもないのに俺がここに来ちゃおかしいか?」
 できるだけ平静を装って答えると、
「そんなことないよ。三洲くんならいつでも大歓迎」
 そう言って屈託のない笑顔を見せた。
「邪魔するつもりはないから、いつも通り練習してくれよ」
「うん、ありがとう。でも、なんだか緊張しちゃうな」
「たったひとりの観客で緊張してたら、将来大ホールで演奏するときどうするんだよ」
「まさか、そんな大ホールだなんて! 大袈裟だなあ、三洲くん」
「あはは」
 葉山の慌てた様子に思わず笑みが零れた。そういえば…こんなふうに笑うのはいつ以来だろう。

 温室に溢れる暖かなメロディと花々の香り、土の匂い。こうしていると、少しずつ心の中の塊が解けていく気がした。
 曲が終わると葉山が照れくさそうに俺を見る。俺は盛大な拍手を贈った。
「こんなふうに三洲くんと過ごせるなんて、ちょっと嬉しいな」
 …俺もだよ。まるで元の世界に戻ったみたいだ。そして、俺は今まで随分葉山に救われていたんだということに気付いた。

「猫は?」
 不意に思い出したあの猫。あの猫はどうしているのだろう。そんなくだらないことが急に気になった。
「猫?」
 葉山が不思議そうに首を傾げる。
「一学期の始め頃、ここに猫がいなかったか?」
 真行寺が可愛がっていた黒い猫…。
「ああ! 大橋先生がどこからか拾ってきた…三洲くん、知ってたの?」
「たまたま見かけたんだよ」
「そうなんだ。あの猫たちは確か大橋先生の知り合いにもらわれて行ったんだよ」
「三匹とも?」
「そう。でも、なんで急に? 三洲くん、もしかして猫好きだった?」
「いや…」
 嫌いだった。リンリンという名前をもらって、誰にも懐かなかったあの黒い猫。葉山と真行寺を結びつけるきっかけだったから。
 でも、ここには真行寺もいなければリンリンもいなくて、俺の些細な、子供じみた嫉妬さえ存在しない。

 「俺」のすべてが否定されているかのようだった――。


  
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