+++ 透明な言葉 +++

〜Arata side〜



 俺は人気のない林の中で星を見上げていた。十月の終わり、祠堂の夜はもう真冬に近い寒さだった。
 澄んだ空気に一際冴える星空は、見ているだけで吸い込まれてしまいそうで俺を不安にさせる。
 いつも時間に遅れるのは俺の方で、どんなに遅れてもそこには笑顔があって。それが当たり前だったのに。
『俺は一秒も待たないぞ』
 いつものセリフ。なのに俺は今、大きな木にもたれ、星を見上げて。
 お前を待っている…。
 お前はいつも、どんな思いで俺を待っているんだろうな。
 急な用事で行けなかったことも一度や二度じゃない。
 それでもお前は、いつでも俺に笑顔を向けた。俺が謝る隙も与えずに…。
 だから俺は安心して遅れることも出来たけど。
 なあ、真行寺。お前も不安だった? 俺を待つ間、いつも不安なのか…?

 ばかげてるよな、本当に。たかだか三十分かそこら待たされただけでこんな気分になるなんて。…帰ろう。帰って、次に会ったらいつものように憎まれ口のひとつでも叩いてやろう。その方がよっぽど俺らしいじゃないか。
 その時。ガサッと枯葉を踏み分ける音がした。顔を向けるとそこには待ち人が立っていた。
『俺を待たせるとはいい度胸だな』
 安堵した気持ちと裏腹な言葉を向けようとして口を開きかけた時
「ごめ…ゲホッ! ゴホッ!…」
 真行寺が掠れた声で激しく咳き込む。
「なんだ真行寺。風邪か?」
 試合が近いって言ってたのにこのバカが。真行寺が喉を指差して腕を胸の前でクロスさせた。
「声が出ないのか?」
 そんなんで今度の試合大丈夫なのかよ。
「まったく…。バカは風邪ひかないって、あれ嘘か?」
 首を横に振る真行寺に更に意地悪な言葉を投げる。
「じゃあお前、自分はバカじゃないとでも言いたいのか?」
 素直じゃないよな、俺も。本当は、心配なのに。
 大きく頷いた真行寺がいきなり倒れ込んで来た。よろけながらも必死で受け止めた俺は
「重い、真行寺。どけ…」
 言いかけて、気付いた。俺の腕の中にある体の熱さに。そっと体を離しながら真行寺の瞳を覗き込む。
「お前、熱あるだろ」
 額に触れると驚く程熱かった。なんでお前はこんな時まで…。
「ずいぶん高そうじゃないか。なんでそんな体で来たんだよ」
 俺が待ってると思ってたのか? あと一足遅ければ、俺は帰ってたんだぞ? どうしようもない不安に駆られて逃げ出そうとしてたんだぞ? 本当はそれ程までに弱い人間なのに…。
 真行寺の体が小刻みに震えている。この寒空の中、そんな体で、上着を着るのも忘れて俺に会いに来てくれたのか? ホント、バカだな。でも俺はそんなお前が…。
「こんな時くらいすっぽかせばいいだろ。俺はお前のこと散々すっぽかしてるんだから。ほら。」
 俺は着ていたジャケットを脱ぐと真行寺の肩に掛けた。驚いて目を瞠る真行寺。
「俺はいいから早く着ろよ。送るから、部屋に戻ろう」
 俺は少しくらい寒くたって構わない。お前の真剣な想いをいつも誤魔化し続けている罪は、こんな寒さくらいで償える物ではないんだから。
「歩くのが辛いなら寄りかかっていいぞ」
 真行寺の手を引く。今なら。今なら例え誰かに見られても、どうとでも言い訳出来るから。だから寄り添って、ふたりで帰ろう。


 真行寺の部屋は無人だった。大方野球観戦にでも行っているんだろう。
 真行寺はさすがに辛そうだ。苦しそうな息遣いが静かな部屋に響く。俺は真行寺をベッドに座らせると
「ちゃんと着替えておかないと余計にひどくなるぞ。どこだ?」
 すぐにでも横になりたいだろうが、服を着たままでは苦しいだろう? 真行寺に教えられた場所からパジャマを取り出して渡す。
 真行寺はシャツを脱ごうとボタンに手を掛けたが、震えて思うようにいかないらしい。見かねた俺は
「しょうがないな」
 呟いて、そのボタンをひとつずつ外して行った。ああ。前にもこんなことがあったな。あれは夏。真行寺の部屋での、大切な思い出。…トクン、と胸が鳴った。
「変な想像するなよ」
 俺は自分に言い聞かせるように、それを悟られないように、睨む眼差しと共に口にした。
 そのまま着替えを手伝って、抱き寄せてベッドに寝かせてやった。いつもの俺なら絶対しないけど。こんな時くらい、自分の気持ちに素直に行動するのもいいかも知れない。
 見つめた真行寺の唇が『ありがとう』の形に動く。
「礼を言われる程のことでもないさ。具合の悪い飼い犬の面倒を見るのは当然のことだろう?」
 思わず笑みが零れる。こいつの為に何かしてやれたことが嬉しくて。もっと何かしてやりたくて、枕元にあった冷却シートを額に乗せてやる。
「今日はゆっくり休めよ」
 でもこれ以上一緒にいたら、俺は本当の気持ちを曝け出してしまいそうだよ。
 それは、出来ない。俺は立ち上がって帰ろうとした。
「まっ…ゲホッ! ゴホッ!」
 真行寺が言い掛けて、また咳き込んだ。『待って』…そう言いたかったんだろう。真行寺の咳は中々止まらない。気管がヒューヒューと音を立てていかにも苦しそうだ。俺は体を折り曲げてゼイゼイと息をする真行寺の背中をゆっくりと何度も擦ってやった。
「まだ行かないから。無理に声出すのやめろよ」
 こんな苦しそうなお前を見るのは辛いから、声なんか出さなくていい。お前の言いたいこと、ちゃんと感じ取ってやるから。
 ようやく息が整った真行寺が首を押さえる。そりゃ痛いよな、あれだけ咳き込めば。少し喉を潤した方がいい。
「水持って来てやるから待ってろ」
 俺はバスルームで水を汲んで来て体を半分起こした真行寺に手渡す。
「ほら。一気に飲むとまたむせるぞ」
 言われるがまま、ゆっくりと水を飲み干してまた横になる。
「なんだかお前が大人しいと妙な感じだな」
 さっきから俺がひとりでしゃべてる。いつもなら絶対にないよな、と思ったら可笑しくなった。でも
「少し物足りない」
 これは本音。言った途端真行寺の目が輝いた。だから俺はつい意地悪をする。
「ま、いつもはうるさ過ぎるけどな」
 あからさまにがっかりした顔。表情豊かなお前の顔はホント、見てて飽きないよな。…いつまでも見ていたいけど。
「もう眠れよ。お前だって早く良くなりたいだろ?」
 今日の俺は少し変なんだよ。待たされて、不安になって、お前の顔見て安堵して。お前が何も話せない代わりにずっと話してるから、余計なことまで口にしてしまいそうなんだ。
 真行寺が頷くのを見て俺はスタンドに明かりを灯し部屋の電気を消しに行った。
『もう行くぞ』
 言おうとして真行寺の元に戻ると、俺を見上げる寂しげな瞳があった。
「なに捨てられた子犬みたいな顔してんだよ」
 そんな顔されたら離れがたくなるじゃないか。愛しくて堪らなくなる。無意識に小さな溜息が零れた。
「…お前が寝付くまでいてやるから」
 あやすようにそっと前髪に触れると真行寺の瞳に涙が浮かんだ。
 ばか。泣くようなことじゃないだろう?
「熱のせいで涙腺弱くなってるな、お前」
 わざと軽い調子で言った。いつもなら、俺がどんなに足蹴にしても笑ってるくせに。
 出会ったあの日以来、一度も涙なんか見せなかったくせに。
「俺が優しくしたら変か?」
 覗き込んだ瞳がやけに真摯で艶を帯びていてドキリとする。
 自分の心の変化を見られないように、そっと唇を塞いだ。
『好きです、アラタさん』
 いつものお前の言葉が聞こえて来るような気がして。
「…俺もだよ…」
 つい、言ってしまって自分でも驚く。やっぱり今日はいつもと違うお前を前にして自分のペースが掴めない。
「…俺も…、変だと思ってる。やっぱり慣れないことをすると調子が狂うな」
 こんな苦しい言い訳めいた言葉でも、お前はこっちを信じるんだろうな。
 ほんの一瞬、哀しそうな顔をして閉じた真行寺の瞳から涙が零れ落ちた。
「バカだな」
 手を伸ばし、温かい涙を拭う。俺が心のままに行動しているのに、なんでお前は泣くんだよ。お前の涙が濡らした手をふいに掴まれる。
「ちゃんと布団掛けとけよ」
 その手を毛布の中に戻して離そうとした瞬間、引き止めるように強く握られる。
 俺も迷わず握り返していた。
「甘えてるな、お前」
 それも、嬉しいけど。
 いつもいつもまとわり付いて来るくせに、お前、本気で俺に甘えることはないよなあ。
「俺が優しいのは今日だけだぞ」
 本当はいつだって優しくしたいのに。 
「早く治せよ、真行寺」
 お前の涙なんか見たくないのに。
 いつだって、お前の笑顔を見ていたいのに。
 優しくして泣かれたんじゃ、俺は一体どうすればいいんだよ…。

 …でも。たまには心のままに動くのも悪くない。
 いつも偽ってばかりの俺だけど。
 お前の為に、お前だけの為に、何かをすることはとても心地良いんだと初めて知った。
 素直になれたら、少しは楽になれるんだろうか。
 お前も苦しまずに済むんだろうか。
 ―――とうに答えはわかっているはずなのに。
 俺はいつまで経っても答えを出すのが怖くて。

 穏やかな寝息を立て始めた横顔にそっと囁いてみる。
「好きだよ、真行寺…」
 届かない言葉は、薄明かりの中へと消えて行った―――。




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