+++ もっと・きっと・ずっと +++

act 10



「お、章三。やっと来たか」
 ぼくの隣でビールを呷っていたギイが、久しぶりの伊達メガネ越しでない目を嬉しそうに細めた。
 ギイのゼロ番。夕食後からぼちぼち集まり始めたメンバーは各階段長をはじめ錚々たる顔ぶれになっていた。
「ああ、遅くなって悪かったな」
「いや、夜はこれからだろ?」
 ニヤリと笑ったギイに、章三は顔をしかめる。確かに、このメンバーの中に章三ひとりで入って来たらキツそうだ。もうすでにあちこちでイチャイチャが始まっているのだから。この分だとここのお開きもわりと早いかもしれないな。みんなそれぞれに『予定』もあるだろうし…なんて考えてひとりで赤面してしまった。
 すると部屋に入って来た章三の後ろから三洲が顔を覗かせた。
「あ、三洲くん…」
「こんばんは。盛り上がってるな」
 絶対来てくれないと思ってたのに。章三にも誘われたのかな。
「おおっ、三洲も来たんだ。入れよ」
 こっちこっちと矢倉が手招きをする。
「いや、ちょっと葉山に用があって」
「ぼく?」
「だとさ」
 章三が答える。ギイの顔を振り返ると、「行って来いよ」と言ってぼくの肩を叩いた。
「うん、すぐ戻るね」
「いいよ、ゆっくり話して来いよ。どうせこの間のことが気になって仕方なかったんだろ?」
「あ、うん…。じゃあ行ってくる」
 ギイが三洲に向かって手を上げて見せると、三洲も微笑んでそれに応えていた。

「お楽しみのところ呼び出して悪いな」
「いいよ全然。ぼくも話したかったし」
「部屋に戻るか?」
「それでもいいけど…」
 でもお酒と人いきれのせいで火照った身体を少し冷ましたいかも…。
「俺は少し飲んで来たから涼みたいんだけど、屋上でも行くか? 幸い今日はそれ程寒くないし」
「うん、そうだね。ぼくもそう思ってたんだ」
 そうしてぼく達は寮の屋上へと向かった。
 
 この時期の祠堂にしては珍しく暖かな夜。さわりと吹く風が火照った身体に心地よい。
 屋上に人影はなく、ぼく達は突き当たりのフェンスまで行って足を止めた。
「この間は悪かったな」
 ここに来るまでひとことも話さなかった三洲がぽつりと言った。
「別に三洲くんが謝ることじゃないよ。ぼくの方こそごめんね。おせっかいなのは自分でもわかってるんだけど」
「そんなふうに思ってないよ」
「でも…」
「…嬉しかったよ。俺の…俺達の為に本気で心配してくれて」
「三洲くん…」
 真っ暗な林を眺めたままの三洲に顔を向けると、三洲は右手を差し出して微笑んだ。
「葉山と同室になれて良かったな。…一年間ありがとう」
「な、なんだよ急に。ぼくの方こそお礼を言わなきゃいけないことたくさんあるのに」
 出された手を握り返しながら、一年間一緒の部屋で過ごした三洲との別れを実感して寂しい気持ちが込み上げてくる。
 一度ぎゅっと力を込めてから手を離した三洲は、また林に目を戻して言った。
「葉山。ついでに少しだけ聞いてくれないか? 独り言だと思ってくれていいから」
「なに?」
「俺の話。…俺の、本音。…最後だから…」
「三洲くん…。ぼくなんかが聞いていいの?」
「葉山だからいいんだよ」
 そう言って三洲はふっと笑った。
 聞いてくれと言いつつも躊躇うように何度も口を開きかけては口唇を結んで、そしてやっと意を決したように話し出した。
「―――実際さ、あいつがこんなにあっさり引き下がるとは思ってなかったんだよ。たぶん心のどこかで、追いかけて来ることを望んでた」
「うん」
「でも、来なかった。自分で招いたこととは言え、正直言ってショックだったんだ。おかしいだろ?」
「おかしくなんかないよ」
 来なかったのか、真行寺…。諦めてしまう道を選んでしまったんだ。
「結局甘えてたのは俺だったんだよな。俺がどんなに酷い仕打ちをしてもわかってくれると思ってた。でも現実はこんなものだ。夢を見ていたのは俺の方だった」
 自嘲気味に笑った三洲の掴んだフェンスがガチャリと音を立てた。
「そんな…」
 三洲の心が、痛い。いつもたくさんの人に囲まれて、でもその実、誰にも心を開いたことはなかった三洲。今になってぼくにそれを許してくれる気になったのは、卒業と言う別れに感傷的になったからなのだろうか。
「最後に、ひとつ頼まれてくれないか?」
「なに? ぼくに出来ることなら何でも言ってよ」
「あいつは、強いから…」
 突然吹いた風が三洲の声を浚う。
「え?」
「あいつは強いから、きっといつか乗り越えられると思う。でももし挫けそうになってたら、その時は力を貸してやってくれないか? 電話でも何でもいいから話を聞いてやって欲しいんだ。きっと葉山にしか話せないと思うから」
「三洲くん…。やっぱり真行寺くんのこと好きなんじゃないか…」
「…そうだな。大好きだったよ」
「過去形?」
「さあな、もう自分でもわからないよ。俺は嘘つきだからな。どこまでが本当なのか、自分でもわからないんだ」
 そう言って、目を伏せて薄く笑う。
「本当にこれで終わりにしていいの?」
「今更俺の方からなんて何も言えないよ。散々傷付けて来たんだ。最後まで嘘を突き通すさ。…その方が、あいつだって、俺のことなんか早く忘れられる」
 フェンスを握る三洲の手はわずかに震えていた。
「本当にそうかな…。ちゃんと話し合いもしないで別れたって、ふたりとも想いが残ったままで先に進めないんじゃないかな…」
「そんなことは…」
「でも、だったら三洲くんの気持ちはどこへ行くの?」
「…俺は…俺が、自分で決めたことだから…」
「そうやっていつも何でも我慢して来たの? 本当の気持ちを誰にも見せないで、何でもひとりで解決して」
「………」
 閉じた睫毛が月明かりに照らされて影を落とした。
「我慢強いのもいいけどね、たまにはちゃんと吐き出さないと、三洲くんの心がかわいそう。そんなふうに扱ってたらいつか壊れちゃうよ、三洲くんの心…」
「…葉山…」
「人間ってさ、弱い部分があって当たり前だと思う。それを見せたくないと思う気持ちもわかるけど、でも全部を曝け出せないこと自体が弱いような気もするし。プライドを捨てろとは言わないけど、ほんの少しだけ勇気を出してみれば案外あっさりと楽になれるんじゃないのかな」
「…勇気?」
「あのね、三洲くん。別れる選択をしたのも勇気だったのかも知れないけど…別れない道を選ぶのも勇気なんだよ」
 三洲はハッとしたようにしばらくぼくを見つめて、それからひとつ小さく息を付いた。
「葉山は…時々平気で俺を動揺させるようなことを言うんだな。そんなふうに言われたら、もしかしたらそんな選択肢もありなのかと思えてくる」
 昨日今日考えたことじゃない。出会ってからずっと考え続けて来たことだったのに。
「だったら…」
「でも。やっぱり俺には出来ないよ。今更もう、俺には何も言う資格なんてない」
「資格とか、そんな難しく考える必要ないのに…」
「…無理なんだよ、葉山」
 三洲は俯いて弱々しく首を横に振った。
「三洲くん…」
 三洲は自分の心を犠牲にしてもいいほどに真行寺の未来を思っている。
 決して安易に出した結論じゃなかったことが、いつになく儚げに見える三洲の姿から想像出来た。
 …こんなに想い合っていても別れなくちゃいけないなんて寂しいけれど、でも三洲がどんな思いで決意したのかを考えると、ぼくはもうそれ以上何も言うことは出来なかった。

 三洲が顔を上げていつもの笑顔でぼくに言う。
「いろいろ聞いてくれてありがとう。俺は明日朝一番のバスに乗る予定だから、もうここでお別れだな」
「そんなに早く?」
「ああ。もうやり残したこともないしな」
「少しだけ300号室に寄って行けば? みんなきっと待ってるよ」
「いや、いいよ。悪いけど、今はそういう気分になれない」
「…そっか。寂しいけど、必ず連絡するからね。ホントに一年間ありがとう。元気でね…」
 元気、出してね。
「葉山もな。まあ、崎が一緒なら心配はないか。崎にもがんばれって伝えてくれよ。本当は嫌ってなんかいないからって…」
 そう言って三洲はクスクスと笑った。
 ぼくの心の中をたくさんの想いが交錯する。胸が熱くなった。
「うん。きっとギイ、喜ぶよ」
「それはどうだか…」
 そう言った時。屋上のドアが軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
「…やっと、見つけた…」
 暗闇でもわかる長身のシルエット。ぼくたちは思わず顔を見合わせた。
 そして三洲は目を細めてその影に視線を向ける。とても愛しい人を見る表情で。
 その瞳にうっすらと透明な膜が張ったことにぼくは気付かない振りをして、軽く三洲の肩に手を掛けた。
「やっぱり、来たじゃないか」
「―――そうだな」
「じゃあ、ぼくは行くね」
 がんばって、今の想いをちゃんと伝えてあげて。きっと彼は受け止めてくれるから。
「ありがとう…」
 立ち去ろうとしたぼくの耳に微かに届いた三洲の声。
「葉山サン。俺…」
 すれ違いざま真行寺が何かを言おうとする。
「お待ちかねだよ。早く行ってあげて」
「え…」
 ぼくを見つめる真行寺に、ひとつコクリと頷いて見せた。
 ゆっくりと歩き出した真行寺。背後でその足音が三洲の元へと向かうのを聞きながら、ぼくは屋上をあとにした。


   
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