寮に戻る途中で念のため学生ホールを覗き、そして一階の章三の部屋と270号室が無人なのを確認した真行寺は300号室へ向かった。
応対に出たギイに三洲が託生と出て行ったことを教えられ、今度こそどこを探していいのやら皆目検討がつかない。
託生と一緒なら温室、ということもあり得るだろうか。
でもここからわざわざ遠く離れた温室まで足を伸ばすとも思えないし。
食堂とか、噴水とか…ああ、祠堂の広さが恨めしい。
この敷地内にはいるはずなのに、こんなに会いたくて仕方ないのに見つけられなくて、段々頭に血が昇ってくるのがわかる。
生徒会室からここまでほとんど走って来たから、さすがに少し息も上がっていたし、気持ちばかり焦って考えがまとまらない。
こんな状態で会ったってまともに話ができるかも怪しい。
―――少し頭を冷やしたほうがいいカモ…。
真行寺は幾度となく三洲と逢引をしたことのある寮の屋上へと向かった。
息を整えるべくゆっくりと階段を昇った。
一番上までたどり着き、いつもはキッチリと閉まっている屋上の扉がわずかに開いていることに気付く。
…卒業生の誰かがデートでもしてたらマズいな。
真行寺はそっとドアノブに手をかけた。
なるべく音を立てないようにと、ゆっくりと押した屋上の扉はそれでも軋んだ音を立てて開いた。
そしてその音に驚いたように顔を向けたふたつの影。暗くても、見間違えるわけがない。
「…やっと、見つけた…」
ふたりは一瞬顔を見合わせ、そして三洲の視線がまっすぐに真行寺へと向かう。
三洲となにやら短い会話を交わしたあと、託生だけが真行寺のほうへと歩いて来た。
「葉山サン。俺…」
やっぱりこのまま終わりにしたくないから…。
そう言おうとした真行寺に託生は微笑んで意味深な言葉を口にした。
「お待ちかねだよ。早く行ってあげて」
「え…?」
言われた意味をよく理解できないまま三洲を見ると、鋭い視線が待ち受けていた。
待ってたって、今言われたはずなのに、その言葉をにわかには信じられなくするような三洲の眼差し。
それでも託生の言葉に勇気付けられて、真行寺はしっかりと三洲を見つめ返しながら歩み寄った。
「アラタさん…」
「今頃、何しに来た?」
冷ややかな声に一瞬怯む。でも、やっと捕まえた最後のチャンス。逃す訳にはいかない。
「お話があって来ました」
「なんだよ改まって」
「少し寒いっすね。部屋に戻りませんか?」
「俺はもう話すことなんてない」
「俺にはあるんです」
三洲は何も答えずにしばらく真行寺を眺めたあと、視線を足元へ落とした。
「顔も見たくなくなった?」
「…答えたくないな」
「それでも、いいけど」
真行寺は肩をすくめる。
「とにかく、何が何でも聞いてもらいます。どうせ最後なんだから。俺にも言いたいこと言わせてください。その上で俺のこと嫌うなら嫌っていいよ。そうしたらもう追いかけたりしない」
「…真行寺…」
小さく呟いた三洲の腕を掴み歩き出す。
「手を、放せよ」
言いつつも三洲は真行寺の手を払いのけることはしなかった。
だから、気付いてしまった。
今、ここにこの人を残していってはいけないのだと。
「真行寺!」
らしくない切羽詰ったような声で呼ばれ足を止める。
振り向いて見下ろした三洲の瞳は不安の影に彩られていた。
「放して欲しいなら振りほどけばいいでしょ?」
「………」
「話もしたくないなら、振り切ってひとりで部屋に戻ればいいじゃないっすか。それをしないならアラタさんは話を聞く意志があるんだと、勝手に解釈します」
「話は、聞いてやる。だから…」
いつもより幾分掠れた声でそう言われ、真行寺は拘束を解いた。三洲が掴まれていた腕を摩る。
黙って歩き出した真行寺のあとを、三洲も無言で付いて来た。
三洲が何を不安に思っているのかも、何を期待しているのかもわからない。だけど真行寺が伝えようとしていることはきっと間違ってない。
ふたつの足音だけが響く暗い階段を降りながら、真行寺はそう確信していた。
270号室に戻り、三洲がベッドに腰掛ける。真行寺も向かいの託生のベッドに腰をおろした。
「ねえアラタさん。俺、この間アラタさんが言ったこと、信じてないから」
「…勝手にしろ」
「いろんなことがあったよね。俺が祠堂に入学してから二年の間…」
そう言って真行寺は出会ってからこれまでの思い出話を始めた。
ふたりで過ごしたたくさんの時間。
一緒に出掛けた場所、交わされた会話。それは祠堂の中でのことだけに留まらず、二年という歳月の中で数え上げたらきりがないほどになっていた。
真行寺の口から語られるそのひとつひとつの出来事を三洲はただ黙って聞いていた。
この場に似つかわしくない真行寺の明るい声と、時折真っ暗な窓の外に意識を飛ばしながらまるでなにも聞こえていないかのように無表情な三洲。
いくらしゃべり続けてもなんの反応も示さなかった三洲が、ふと真行寺が言葉を切った瞬間に言った。
「今更そんな話をしてなんの意味があるんだ?」
「今だからだよ。アラタさんはこういうの、全部なかったことにしたいの?」
「そうだと言ったら?」
「…そうだとしても。俺の話、聞いてくれるって言ったよね。だったらちゃんと最後まで聞いてよ」
ふぅっと細く息を吐き出した三洲がまた窓の外に目を向ける。
目を合わせようとしないのは、少しでも後ろめたい気持ちがあるからなんだろうか。
「服を選んでくれたこともあったよね。嬉しかったな。それで試着室で…」
「もうやめろよ」
再び話し始めた真行寺の言葉を三洲が遮る。でも真行寺はそれに構わずに先を続けた。
「夏休みにその服を着て渋谷でデートして。思ってたより全然イチャイチャできなくてすごく残念だったけど、でもそのあと俺の家に来てくれた」
「いい加減にしろ」
「アラタさんが俺のベッドで眠ってる姿を見ただけで、すごく幸せだったよ」
「もう、聞きたくない」
小さく首をふり、三洲は手のひらを額に当てて俯いた。
「ねえ、そういうのってさあ、全部作りごとだった訳? そんなはずはないでしょう? アラタさん、俺といて楽しくなかった?」
「………」
「俺といて楽しいことってなにひとつなかったの?」
「…楽しかったよ。全部いい思い出だ。―――そう言えば満足か? それならお前も納得できるのか?」
抑揚のない押し殺した声でそう言われ、真行寺は諦めたように大きく溜息を付いた。
どうしても認めようとはしてくれない、楽しかったはずのできごと。
自分達が、たとえカラダだけとは言え、付き合っていたという事実。
予想通りと言えば、その通りの反応だ。
でも、いつか。いつか思い出した時に、三洲の心の中でも輝いていてくれれば。それが支えになってくれれば…。
「アラタさん…。わかった。もう、いいよ」
「…え?」
三洲がゆっくりと顔を上げる。
「もういい。だけどさ、忘れないでよ、ここで俺と過ごしたこと。全部芝居だったなんて言わないで。それだけ約束してくれたら、俺、もうここから出て行くから…」
「―――真行寺」
「いつも思い出してとは言わない。でもなにかあったらいつでも俺のこと利用していいよ。俺はどこにいてもアラタさんのこと想ってるから」
「…ばか。それじゃ意味ないじゃないか」
三洲がピクリと眉を寄せる。
「意味って…?」
「お前が俺を忘れなきゃ、意味ないだろ」
「でも、あったことをなかったことにはできないよ」
「それでも、俺がここを出たらとっとと忘れろ。その方が、お前にとってはいいに決まってる」
「どうして言い切るの? 俺はアラタさんからたくさん力をもらったよ。そういうの全部忘れたら俺きっとダメな人間になる。だから忘れない。…たとえもう、二度と会えないとしても」
「―――ばか…」
呟いた三洲の瞳が大きく揺れ、口元がきつく結ばれた。
…え?
「アラタさん…?」
三洲はすっと立ち上がり窓辺に寄って真行寺に背中を向ける。
その背中は小刻みに震えていた。
「…俺の、本当の望み、知りたいか? そうすれば、忘れてくれるのか?」
「俺に教えてくれるの…?」
辛いと思うこともあったけど、そういう経験だっていつかは自分の人生のプラスになると信じてる。だからずっと心に刻んでおきたい。今、この時でさえも。
それなのに忘れろと言う、忘れようとしている三洲が望むものなんて、正直検討も付かなかった。
「俺は…。俺は、お前にはちゃんと幸せになって欲しいんだよ。その為には俺なんかいないほうがいい。そうだろう…?」
絞り出すような震える声で言う三洲にハッとさせられる。
俺の幸せ…? それが、望み…?
「なんで…」
「なんで…俺が今までお前以外の誰にも告白すら許さなかったと思ってる? なんでお前以外の誰にも体を許さなかったと思ってるんだよ…」
「アラ…タ…さん?」
振り向いた三洲は戸惑う真行寺を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、お前を、ずっと、好きだったよ」
三洲の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。初めて見る三洲の涙に息を飲んだ。
「…アラタさん…」
真行寺の視界も歪む。でももう三洲に涙を見せるのは嫌だから。
強くなろうって心に誓ったあの日を思い出し、必死で溢れ出そうとするものを押し込んだ。
「でも、だったら、俺たちが今別れる理由なんてないじゃないっすか。俺だって、先のこと考えてない訳じゃないんだよ」
「出来ないよ…」
力なく呟く三洲の両手を真行寺はぎゅっと握り締めた。
「俺、強くなるから。誰に何を言われても負けないくらい、どんなことがあってもアラタさんを守れるくらい強くなるから!」
「守られるのなんてご免だ」
「じゃあ一緒に強くなろうよ」
「…いやだ」
「いいじゃん」
「だめだ…」
「だめじゃない」
「無理だよ…」
「信じてよ」
それでも三洲はただ首を横に振るだけだったけど。
「アラタさん、ちゃんと俺のこと見て」
その瞳をしっかり見つめて。ありったけの想いを込めて。
「好きです、アラタさん。…もう一度、ここから始めませんか?」
もう一度、初めから。歪んだ関係なんかじゃなくて。ふたり、きちんと心を繋いで、初めから…。
「なんで、そんなに…」
ぽろぽろと頬を伝う透明な雫。それを見せまいと俯いた細い体を抱き締める。
そっと何度も髪を撫でていると、三洲はゆっくりとその頭を真行寺の胸に預けた。
三洲の握り締めたシャツが胸元で皺を作る。
「―――ホントにばかだな、お前…」
「知ってます」
「こんな関係続けるのなんて、簡単なことじゃないんだぞ?」
「わかってます」
「どうなってもいいのかよ、本当に…」
「いいんです!」
キッパリ言い切って抱き締めた腕に力を込める。
「…ばか…」
「そんなに何度も言わなくても…」
三洲の腕が真行寺の背中に回される。
その仕草で三洲の真意を汲み取った真行寺は、こんな時でも決して自分からはそれを口にしない三洲のために、三洲がただ頷くだけで済むように、耳元に口を寄せて囁いた。
「もう一度言うよ。好きです、アラタさん。俺と、付き合ってください。これからは、ちゃんと恋人として付き合いましょう?」
背中にある手に力が込められ、これ以上ないほどきつく抱き締めあう。
くっと三洲の喉が鳴り、必死で涙を飲み込もうとしているのがわかった。
いきなりこんなふうに素顔を見せられて、驚きながらも愛しさが込み上げる。
やがて三洲は
「…そうだな。それも、悪くないかもな…」
そう言ってまだ涙の残る顔で真行寺を見上げた。
ふわりと微笑んだ三洲は今まで見たどんな笑顔よりも綺麗だった。
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