昼食のあと、部屋に戻って荷物を整理したり、バタバタと訪ねて来る友人達の相手をしているうちにいつの間にか下級生達の授業が終わる時間になっていた。
三洲はどこかに行ったきり帰って来ない。ぼくはバイオリンを持ち、すっかり通い慣れてしまった温室へと向かった。
卒業式の後の謝恩会で、ブラスバンドの演奏の前に一曲弾くことになってるから少し練習しておかないといけない。
一応国内の受験は終わって無事合格したし、夏のアメリカの入試までは時間があると思うと自然と足取りも軽くなった。そうか。意識してなかったけど、やっぱり受験の前はナーバスになってたのかもな、なんて今更思い当たったりして。
外の寒さとはかけ離れた暖かい温室の中。いつものようにこの温室と同じくらい暖かい笑顔で大橋先生が迎えてくれた。花壇の草花に水をやりながら、ニューヨークに行くと決めたことを報告する。
大橋先生は『やっぱりね。あれ? でも英語の成績は芳しくなかったよねぇ。まあ崎もいるし、心配はないだろうけど』なんてさらりと言って下さる。
なんだかこの先生には初めからギイとのことはバレバレだった気がする。
一通り草花の世話が終わると、先生はリンリンを連れて準備室へ戻って行った。
ここでバイオリンを弾けるのも後二日…。ぼくがバイオリンを取り出して弦を張っていると
「あ、葉山サンだ! お久しぶりっすぅ!」
真行寺がにぎやかに入って来た。
「久しぶり、真行寺くん。元気だった?」
「あーっ! 葉山サン、後二日で卒業しちゃうっていうのに、結局俺のことカネミツって呼んでくれなかったーっ! ねぇねぇ、最後に一度くらい呼んでみてよ」
「いやだよ。真行寺くん」
ぼくはわざと『真行寺くん』にアクセントを付けて言ってやった。
「あーぁ。葉山サンがカネミツって呼んでくれたら俺も少しは元気出るのになぁ」
「何言ってるのさ。元気じゃないか」
「カラ元気ってやつっすよ」
真行寺が笑う。
「ぼくがいない間ずっと三洲くんと一緒だったんだろ?」
元気じゃない訳ないじゃないか。
「そんなに呼んで欲しいなら三洲くんに言いなよね」
軽い調子で言った言葉に、何故か真行寺は俯いてしまった。
「…もう、そんなことも言えないから」
「え? 何で? いくら卒業して今までみたいに会えなくなったって、電話するなり休みに会いに行くなりいくらでも出来るじゃないか。そんなに落ち込まなくても…」
真行寺がぼくの顔を見つめる。
「やっぱりアラタさん、何にも言ってないんすね」
「毎日会ってたって言ってたけど、違うのかい?」
「や、違わないっすよ、葉山サン」
真行寺が寂しげに微笑む。そんな様子を見て、ぼくは慎重に尋ねた。
「何かあったの? もしかして」
「何か、あったって言うか、何もなかったって言うか…。ああ、そうか。何もなかったことにしたいのかな…」
真行寺が独り言のように呟く。
「よくわかんないんだけど…」
「はは。そうっすね。すみません。昨日寝てないから頭回ってなくて」
「真行寺くんが寝てないなんて、ただごとじゃないじゃないか。本当に何があったんだよ?」
八時間は寝ないと調子が出ないと言っていた真行寺。それが寝てないなんて大事件じゃないか。
「…言ってもいいのかな? もう、関係ない存在だから、いちいち気を遣う必要もないのかな…」
「真行寺くん…」
なんとなく、嫌な予感がする。
「関係ない存在って、何だよそれ」
と、突然パッと顔を上げた真行寺はニッコリ笑った。
「俺、振られたっすよ。ずっと振られっぱなしだったから、今更こんな言い方も変だけど、でももう、全部終わったっす」
「え…」
にこやかな笑顔とそぐわないその言葉にぼくは絶句した。
「…今までのことは、全部芝居だって。一緒にいた時間は全部夢だって言われたっすよ。俺は…俺はそんなふうに思えないのに、アラタさん、それを笑いながら言ったっすよ」
真行寺の大きな瞳に涙が溜まるのがわかった。
「そんな…。そんなのいつもの意地悪だろ? 本気でそんなこと思ってる訳ないじゃないか」
「俺だってそう思いたいけど。でも、今、この時期に、そんなこと言ってただの冗談で済むと思いますか? 例えそれが嘘でも、アラタさんが俺と離れようとしてるのは事実っすよ」
「でも…。だって、三洲くんだってあんなに真行寺くんのこと…」
「もういいっすよ、葉山サン。ほんと、優しいっすよね。いつもすごく嬉しかったな。葉山サンにそう言われて、俺、何度も勘違いしそうになった。アラタさんももしかしたら俺のこと想ってくれてるのかも知れないって…」
そう言った途端、真行寺の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「真行寺くん…」
かける言葉が見つからなくて、ぼくは自分より遥か上にある真行寺の頭をそっと引き寄せる。
「葉山サン。俺、アラタさんに出会って、強くなろうって思って。もう絶対泣かないって誓ったけど。アラタさんの為に、アラタさんに釣り合うくらい器の大きい人間になろうって思ってたけど。……でも、もうそれも必要なくなったから……泣いてもいいよね……?」
ぼくの肩に顔を埋めた真行寺の大きな背中をぎゅっと抱き締めた。声を押し殺して泣く真行寺の姿が余りにも辛過ぎて。
ぼくはこの一年間の出来事を思い返していた。
全部お芝居なんて、そんなことあるはずがない。だって、ぼくは知っている。まだ三洲と同室になって間もない頃、真行寺と急速に仲良くなったぼくに嫉妬していた三洲。リンリンを嫌っていたのもきっとそのせい。
七月の音楽鑑賞会の頃だって、すれ違ってばかりの関係が辛そうで。他にも色々、真行寺が知らないだけで、ぼくが見てきた三洲は確かにしっかりと真行寺のことを想っていた。それは同じ恋する人間同士の確信みたいなものだった。何を思って三洲がそんな態度に出たのかわからない。だけど、
「ねえ真行寺くん。もう一度三洲くんと話してみたらどうかな」
真行寺は無言で首を振る。
「でも、このまま卒業しちゃったら、お互いに未練を残すだけだよ?」
「…俺はともかく。アラタさんが未練を残すことなんてないっすよ」
くぐもった声で答える。
「俺はアラタさんがそう決めたんなら、アラタさんがその方が幸せなら、もうそれでいいから…。今まで十分過ぎるくらい俺のわがままに付き合ってくれた。だからもう、これ以上俺の一方的な想いに付き合わせる訳にはいかないよ…」
こんなにも深く想っているのに。三洲だってそれが幸せだったはずなのに。なんだってこのふたりはこんなことになっちゃったんだろう…。
それからしばらくして、真行寺が顔をあげて笑顔を作って見せた。
「肩、濡らしちゃってすみません。それに練習の邪魔っすよね」
「そんなこと。いいよ、真行寺くん。…こっちこそ力になれなくてごめんね」
余りにも痛々しくて、真行寺の顔を直視出来ない。
「だったら、最後に何か一曲弾いてくれますか?」
「いいよ。ぼくの演奏なんかで良かったら」
ぼくは出来るだけ明るい曲を選んで奏でた。でもそれはあまりにも今の心境に似合わなくて、余計に哀しさが増していくようだった。
それでも真行寺は丁寧に礼を言って、遅れたけど部活に行くと言い出した。寝てないなら今日は休めば、と言うぼくに、その方が気が紛れるからと言って温室を去って行った。
ぼくはそれ以上練習する気にもなれずに、かと言ってすぐに部屋に戻って三洲と顔を合わせる気にもなれずに、温室の隅の椅子に腰掛けた。
―――ギイ。こんな時、どうしてあげればいいんだろう。ずっと支えてくれたかけがえのない友人達の為に、何が出来るだろう……。
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