+++ もっと・きっと・ずっと +++

act 6



 章三が270号室を出て行ったあと、ぼくは何度も顔を洗い、言われた通りに冷たいタオルを目元に当てて、やっとなんとか見られる顔になってからギイのゼロ番へ向かった。
 特に何もすることもないので、ソファに座ってギイが買って来たらしい英語で埋まった雑誌をパラパラと捲る。ニューヨークにいる間も、ギイはいろんな雑誌をぼくに見せて、最初は写真と一緒に眺めているだけでもそのうち段々わかるようになって来るからと言っていたけど。
 …ダメだ。全然わかんないや。それでも以前のように英語がズラズラと並んだ紙面を見ただけでめまいがするようなことはなくなっただけマシだけど。―――こんなんで大丈夫なのか、ぼく…?
 そもそもこれが日本語の雑誌だったとしても、今のぼくの頭に入るかわからないけど。
 今日の出来事が頭をよぎる。
 真行寺の哀しみと、三洲がほんの一瞬だけ見せた切なげに揺れた瞳。三洲だって辛くない訳じゃないんだとわかった。
 だったら別れなきゃいいのに…とは、ぼくには言えない。これが普通の男女の関係だったら遠慮なくゲキを飛ばすところだけど。
 ぼくたちの選んだ道はきっと、幸せを掴むのには果てしなく長く、遠い。たくさんの障害が待ち構えていることはわかりきっている。
 だから、わざわざそんな険しい道を好きな相手に進ませたくないと考えるのは当然のことで。それをわかっているから真行寺も三洲の言葉に反論しなかったのだろう。そして三洲もそれほどに真行寺のことを…。

「た〜くみ」
 カチャリ、と300号室のドアが開き、ギイがいつもよりにこやかな笑顔と手に弁当を携えて戻って来た。
「ギイ…。おかえり」
「ただいま。会いたかったよ」
 ふざけた調子でそう言ってぼくの頬にキスをする。
「今朝までずっと一緒にいたじゃないか」
「そうだけど、オレはいつでも託生のそばにいたいんだ」
 そう言って肩に手を回しながら弁当の包みをテーブルに置き、メガネを外した。ぼくは思わず苦笑してしまう。章三からどう聞いたのかわからないけど、きっとぼくを元気付ける為にこうしてくれてるんだよね。ホントにギイって、どこまでもぼくに甘い。
「赤池くんから聞いてるんだろ? さっきのこと」
「ん? ああ、まあな。託生が可愛かったってことだけ…」
「か、か、可愛い? あ、赤池くんがそう言ったのかい?」
「まさか。章三がそんなこと言ったらただじゃ置かない。章三の話を聞いて、さぞかし可愛かっただろうなーと想像しただけだ」
「ギイ…。からかってる? 人が真剣に…」
 ギイの能天気さにさすがにムッとする。
「からかってる訳じゃない。でも託生、あんまり深刻になるなよ」
「でも…」
「人の恋路に口を挟むな、と今更言っても託生が聞かないことくらいはわかってるよ」
「ギイ、なんで…?」
 なんでわかったんだろう。ぼくは章三にもなにも言わなかったのに。
「オレは託生のことならなんでもお見通しなんだよ…なんてな。オレが帰って来る時にちょうど具合の悪そうな真行寺と出くわしたのさ」
「え、大丈夫なの? 真行寺くん」
 と言うか、それだけでわかってしまうのか? ぼくが三洲と真行寺のことを思って泣いたこと。まあ、何事にも鋭いギイだから、それくらいは当たり前、なのか…?
「ただの寝不足だって言ってたから寝てりゃ治るだろ」
「だから部活は休めばって言ったのに…」
「まあ、せっかく弁当作ってもらったんだから食えよ。お茶かコーヒーなら入れてやるから」
 ギイがぼくから離れてコーヒーメーカーの置いてあるワゴンに向かう。
「コーヒーにするよ。今日くらいぼくも苦い思いをしてみる」
 ぼくの言葉にギイは吹き出した。
「なにもそんなところで苦い思いをしなくても」
「笑うなよ。ちょっと後悔してるんだから」
「三洲に意見したことを後悔してるのか?」
「そうじゃないんだ。意見したこと自体は間違ってなかったと思う。でも、違ったんだ。ぼくが考えてたよりずっと三洲くんは…。ぼくは三洲くんを余計に傷つけるようなことをしちゃったのかもしれない…」
 ギイがコーヒーを入れかけた手を止めてぼくの方へ戻って来る。
「でもな、託生。別れようがどうしようが、やっぱりそれは本人同士の問題だと思うぞ? 託生があのふたりのことを特別に思ってるのはわかるけど」
「だから違うんだよ。そうじゃなくて…。それはわかってるんだ、ぼくだって。人それぞれに事情があることくらい。だけどね、ギイ、それを一方的に決めるのはどうかと思うんだよ。ちゃんと話し合って納得ずくで別れるのなら仕方ないと思うよ。でも…」
「三洲がひとりで決断したことが納得いかない訳だ」
「うん。だって、あのふたりだってちゃんと付き合ってたんだよ。ぼくたちと同じ二年間。ねえギイ、ぼくたちはこの二年の間にいろんなことがあったよね。たくさん話をして、ケンカもして、でもいつもふたりで解決して来た」
 あのふたりは本気でケンカしたことなんてあったんだろうか。二年も付き合っていて(いくら三洲がカラダだけの関係だと言ったとしても)ケンカもせずに過せるとしたら、本当になんでもわかり合っているか、お互いに遠慮しているかだ。
「…三洲はなんて?」
「これが自分のやり方だからって。誰にも本心見せないで、付き合ってた相手にさえ何も言わないで、そんなの寂しすぎると思わない? 最後くらいきちんと話し合うべきだと思うんだ」
「ある意味三洲は逃げてるんだな」
「え?」
「意志が強いのか弱いのか。決断したまではいいが、その経緯を真行寺に伝えたらあいつ自身もその意志を通す自信がないんじゃないのか?」
「そうなのかな…。迷いがあるのかな、三洲くんにも」
「まったくない訳はないだろうなあ。あれだけ執着してたんだ」
 あのリバーサイドのカフェで人目も気にせず感情を露にした三洲は偽りではなかったはずだ。
「それならやっぱり三洲くんだって割り切れない気持ちを抱えたまま卒業することになっちゃうよ…。ねえ、どうにかならない? ギイ…」
「今度ばかりはなあ…。時間もないしな。考えてはみるけど…」
「そう、だよね。もうぼくたち、あさってには卒業するんだものね」
「託生。お前のそういうところ、好きだよ。人の恋路に口出しするとか、そういうんじゃないんだよな。ただ純粋に人の気持ちを思いやれるのってスゴイことだと思うよ」
「ギイ…」
「オレは、そんな託生を愛してる」
 ギイの口唇がぼくのそれに触れる。何度か啄ばまれて次第に深くなりそうなキスを、ぼくはギイの肩を押しやって制した。
「あのね、ギイ。ぼくさすがにおなかが空いて来たんだけど」
 ギイが唖然とした表情でぼくを見る。
「お前って本当に色気ないな」
「ごめんね、ギイ。ご飯食べたらあとでゆっくり…ね?」
 言いながらぼくは赤面してしまった。するとギイは途端に破顔して頬にちゅっと音を立ててキスをした。
「いいよ、託生。今コーヒー入れて来てやるから」
「あ、ちょっと…」
「なんだ?」
「あの、やっぱり、お茶でお願いします…」
 言ったぼくをギイは一瞬きょとんと見つめて、声を出して笑い出した。
「託生らしいよ…」
 ぼくらしいって…なんだよ、もう。

 そんな会話をしたにもかかわらず、ギイもぼくも旅の疲れと時差ぼけもあって、結局あんなことやこんなことをする間もなくそのままソファでうとうとしてしまった。
 気付けばもう点呼の時間だ。
「ギイ、今日は帰るよ」
「ん…。ああ、もうこんな時間か。泊まってもいいんだぞ?」
「ごめんね、ギイ。今日は、三洲くんとこのままにしたくないんだ」
「ああ。そうだな。その方がいい。ちゃんと仲直りするんだぞ」
「仲直りなんて…。別にケンカじゃないんだし」
「そうだな。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ、ギイ」
 そっと触れるだけのキスをしてぼくは300号室をあとにした。
 二階の廊下を歩いて行くと、ちょうど向こうから三洲が戻って来た。
 ぼくは一瞬足を止める。
「葉山、ちょうどいいところで会った。点呼頼んでもいいかい? まだ少し用事が残ってるんだ」
 さっきのことはなにもなかったかのようにいつもの笑顔で三洲が言う。
「いいけど三洲くん、最後まで大変だね」
「それほどでもないよ。俺は忙しくしてる方が性に合ってる」
 少し自嘲気味に笑うと「じゃあよろしく頼むよ」と言って去って行った。
 …謝りたかったのに。
 今夜帰って来たらちゃんと謝ろう。そう思っていたけれど、ぼくは結局、三洲がいつ帰って来たのかもわからないまま、朝までぐっすりと眠ってしまったのだった。


   
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