+++ もっと・きっと・ずっと +++

act 7



「葉山、そろそろ起きないと朝食に間に合わないぞ」
 ぼんやりとしたぼくの耳に三洲の声が微かに届いた。目を開けるとすでに三洲はネクタイをキッチリ締めてもうあとは出掛けるばかりの姿で立っていた。
「おはよう、三洲くん」
「おはよう。時差ぼけか?」
「ん〜。そうみたい。なんだかまだ頭がスッキリしないや」
 まだ寝ぼけ眼のぼくを見て三洲がクスリと笑う。いつもの朝の光景。でもこれもあと一日のことなんだ…。
「あ、そうだ、三洲くん。昨日は」
 ごめんね、と言おうとしたのを遮るように
「俺は先に行ってるから、またあとで」
 三洲は言い残して部屋を出て行った。
 どうやらぼくに謝らせてくれるつもりはないらしい…と、段々はっきりしてきた頭の中でぼくは思った。


 その日の三年生は午前中に卒業式の予行練習をやって、残りの時間は退寮の準備となった。ぼくが留守にしている間に三洲は大方の荷物を実家に送ってしまったらしく、もうほとんど彼の私物は残っていない。
 ぼくはと言うと、日本での受験や旅の準備でここを離れる前はそれどころじゃなかったので、今から気合を入れてやらないとせっかくの明日の無礼講の宴を台無しにしそうな有様だ。
 昼食のあとの一時間ほどを温室で明日弾く曲のおさらいをして過ごし、ぼくは荷造りに取り掛かった。
 年度が終わる度に私物を持ち帰っていたので一年の頃に比べればずいぶん手際が良くなったけれど、やっぱり一年間暮らした部屋での荷物は相当の量になる。
「早くしないと夕飯も食べ損なっちゃうよ…」
 三洲とは朝以来顔を合わせていない。と言うか、会うことには会ったけど、彼はずっと生徒会の面々に囲まれていて話をするような時間はまるでなかったのだ。
 せっかく一年間楽しく過して来たのに、こんなわだかまりが残ったまま三洲と離れてしまうのは寂しい。
 でも…。もうこれ以上なにも言わない方が良いんだろうか。三洲はあんなやりとりがあったあとなのに、あえて普段どおりに接して来た。もうこれ以上踏み込まれるのが嫌なんだろうな、きっと。
 結局最後までぼくには仮面の下の素顔を見せてくれることはないんだ…。
 そんなの今更のことだけど、わかっていたことだけど、なんだかとても哀しくなった。


 どうにかこうにか荷物をまとめ終わった頃、270号室にノックの音が響いた。
 ぼくが返事をすると同時に章三が入って来る。
「お、片付いてるじゃないか。葉山のことだからまだ荷物の山に埋もれてるかと思ったのに」
「ひどいなあ赤池くん。ぼくだって三回目ともなれば多少は慣れるんだよ」
「そうかそうか。成長してるんだな、葉山も」
「当たり前じゃないか。そうじゃなきゃ困るだろ」
「そりゃそうだ。これからは世話を焼く訳にもいかないからな」
 言いながら三洲の机に目を向けて「ところで三洲は?」と訊いた。
「なんだ。三洲くんに用事だったの?」
「いや、まあ用事という程のことでもないけどな」
 曖昧な言い方をする。
「今日は一度も帰って来てないよ。昼食の時も生徒会の人達と一緒にいたからまだ色々手伝ったりしてるんじゃないのかな」
「さっき生徒会室に寄ったけど知らないって言われたぞ?」
「え?」
「まだ仲直りしてないのか?」
「仲直りって…。ケンカじゃないって言ってるのに…」
「それならいいけどな」
「………」
 もしかしてぼく、避けられてる?
「夕食行こうぜ、葉山」
 しばし呆然としていたぼくの肩を章三がポンと叩く。
「あ、うん…」
「あいつはほら、色々と忙しいやつだから。そんなに気にするな」
「別にそういう訳じゃないけど…」
 気にするなって言われても。そりゃあ生徒会長をやってた時は本当に忙しそうだったけど。よく考えてみたら、いくらなんでももう明日卒業するだけの人間が今日までそんなに忙しい訳ないじゃないか。 昨日のこと、やっぱり三洲も気にしてるんだ。だからぼくと顔を合わせ辛くて帰って来なかったのかもしれない。
 明日はもう卒業式なのに。こんなスッキリしない気持ちのままサヨナラすることになってしまうんだろうか。それは哀しい…。
 そんなぼくの心情を察してか、章三がぼくの頭をポンポンと軽く叩く。その手の暖かさに、少しだけ気持ちがほぐれた。


 食事を済ませるとぼくはそのまま利久の部屋へ向かった。帰って来てからバタバタとその辺で会ったりもしたけれど、ゆっくり話す時間もなかった。
 一年の頃、誰とも打ち解けられなかったぼくにもちっとも臆することなく、それどころかなんだかんだと親身になって接してくれた利久の存在は本当にありがたいものだった。二年、三年とクラスも部屋も分かれてしまって、お互いに大切なものができたあとでもやっぱり利久は、ギイとは違う意味でとても大切な存在だった。ずっと友達でいたいと思う。
 ぼくが利久の部屋のドアをノックすると利久はとても嬉しそうにぼくを迎えてくれた。
「俺もこれから託生のところに行こうと思ってたんだよ。全然話す暇なかったし。来てくれて良かった」
「じゃあ今時間大丈夫?」
「もちろん」
 そしてぼく達は他愛もない話をしながら消灯までの時間を過したのだった。


 なんとか点呼に間に合うように部屋に戻ると、あとは寝るばかりに準備を整え終わった三洲がいた。
「おかえり、葉山」
「ただいま」
「今日で最後だな」
「そうだね」
「明日の晩はどうせここへは戻らないんだろ?」
「あ、たぶん…。『階段長会議』に呼ばれてるんだ」
 三年生のみ点呼が免除される祠堂での最後の夜。各階の階段長とその『仲良しさん』が集まってギイの部屋で宴会を開くことになっていた。
 三洲はクスリと笑って
「階段長会議、ね。さぞかし盛り上がるんだろうな」
「三洲くんだって。生徒会の人たちと宴会だろ?」
「まあね。でも立場上ハメを外せない奴が多いから、そっちほどは盛り上がらないさ」
「そっか。じゃあ終わったらこっちに来れば? きっとみんな喜ぶよ」
「そうだな、考えておくよ」
 曖昧に微笑んで視線を逸らした。
 きっと来ることはないだろうとぼくにはわかっていたけれど。それでも誘ってみたのは、昨日のことはぼくも気にしてないよという意思表示と、結局謝れなかったぼくにできるほんのささやかなお詫びの印だった。


 消灯を過ぎると三洲は珍しくぼくより先に眠ってしまった。昨日はあまり寝ていなかったのか、よく見れば目の下にわずかに隈が出来ていた。
「三洲くん、ごめんね…」
 余計に苦しめるようなことを言ってしまってごめんね。なにもしてあげられなくて、ごめんね…。ぼくはしばらく三洲の寝顔を見つめていた。
 一度はベッドに入ったものの、ぼくは中々寝付くことが出来ずに、そっと起き出してカーテンの隙間からわずかに漏れる月明かりに誘われるように窓辺に寄った。ギイ、もう眠ってしまっただろうか。
 窓を開けて、流れ込んで来た風の冷たさに身を竦めながら階上を仰ぎ見る。ギイの部屋の遮光カーテンは硬く閉ざされて明かりが点いているかどうかさえわからなかったけれど、そこにギイがいると思うだけで気持ちが安らぐ。…と思ったのに。
 ふとグラウンドに目を向けると、そこに当のギイの姿があった。ふいにギイがこちらに視線を向ける。バッチリと目が合った。ギイはぼくを見つけて嬉しそうににっこり微笑むと手を振って、何かを追うように足早に去って行った。
 …こんな時間に何をしてるんだろう。ぼくはそのあともしばらく外を眺めていたけれど、ギイが戻って来る気配もなく、さすがに寒くなってベッドに戻った。
 冷えた体が布団の中で暖かさを取り戻し、やっと眠気が襲ってくる。ギイのことが気になりながらもぼくはそのまま睡魔に身を預けた。


   
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